弥生時代の服装

COLUMN

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新規:2001年10月6日
 
これは可愛いかもしれない……
 吉野ヶ里遺跡で見付かった弥生時代の服。その復元されたモノを見た瞬間、思わず描きたいという衝動が湧き上がってきました。もっとも、実際に絵にするまで1年以上も経ってしまいましたけど……。
 
プ、プリーツスカートではありませんか!
 魏志倭人伝などの古代中国の史書では、日本の服装は衣冠束帯であると記述されています。これは幅の広い布に穴を開けて、そこから頭を通して腰で紐などで縛る貫頭衣という服装です。
 ところが、吉野ヶ里遺跡などの当時の生活跡から出てきた衣服を再現すると……、下の絵の右側のような服装になるそうです。まだボタンやファスナーのない時代なので、代わりに服の合わせは紐で留めています。ですが、現代の街中に現われても、違和感のない服だと思いませんか?
 

旧・衣装

真・衣装

従来の説

遺跡から出てきた衣装

 
どうしてこれまでの説と大違いなの?
 この理由は、よく考えれば簡単です。
 中国の史書は、ただの歴史書ではありません。為政者が周辺諸国に優越性を見せ付けるための書物です。そして周辺地域をすべて未開の地、夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)とした中国の考え方によるものなのです。しかし、周辺諸国を未開の民に仕立てる記述には、よく調べるといくつもの明らかなウソがあります。これは日本人に関する記述にも見られます。
 その一つに弥生人の服装があります。
 当時の日本では貫頭衣にするほど幅の広い布が織れませんでした。魏志倭人伝を書いた人は、そこまで技術的な後進地域とは思わなかったのでしょう。でも、その代わりに知恵を絞って、細長い布を継ぎ合わせる右上の絵のようなファッションを考え出しました。
 また同じ魏志倭人伝では小さい記述ながらも服を「倭錦(わきん)」と書いています。「錦」とは鮮やかな模様が織り込まれた布という意味です。自分たちの服の模様には「錦」という文字を使わないのに、「倭」を添えて見下しながらもそう表現する辺り、かなりの驚きが感じられます。このことから当時の服は、よく歴史の挿し絵に使われるような無地ではなさそうです。ヨーロッパの農村や漁村に残っている風習の様に、家ごとに模様が決まっていて、服や帯の模様で何処の誰の物なのかわかるようになっていたのかもしれませんね。
 余談ですけど、右の絵に描いた衣装は、男性用という意見が強いようです。(~_~;) ウゥ~ム…