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公開:2018年3月14日 更新:2018年3月14日

小説史〜明治時代後半

文学と小説の分化
 明治時代中期、西洋の文学作品が高尚な『文学』という形で日本に入ってきます。と言っても高尚というのは思い込みでしょう。
 日本語と西洋の言語の大きな違いはオノマトペの存在です。
 
 日本語は「かく」「きく」「きる」「なく」「みる」などの動詞の少ない言語です。文字にする時は「書く」「描く」「掻く」「欠く」「駆く」と漢字で書き分けてますが、音としては「かく」は1つしかありません。そこで副詞(オノマトペ≒擬音)を使って表現の幅を広げています。
 それに対して動詞が豊富にある西洋の言語ではオノマトペがほとんど使われません。オノマトペはまだ語彙力のない子供が使うため、オノマトペは子供っぽいものという感性になります。
 そういうオノマトペを低俗なものと決めつける考え方をそのまま取り入れて、極力使わないようにしたのが『文学』の始まりでしょう。それが多くの人たちが小説と聞いて思い浮かべる独特の言い回しを生み出してきたと思います。
 それに対して今まで通りにオノマトペを使い続ける文学作品を、へりくだった『小説』というジャンル名で呼ぶようになります。
 
 もう一つ。文学と小説の間には「ルビ」というふりがなに対する思いの違いがあります。
 これも「西洋の言語にはルビがない」という言い方で、文学にもふりがなを低俗なものとする風潮があります。
 それに対して小説ではルビを積極的に使ってきました。これが西洋の概念を日本語に取り入れる大きな役目を(にな)ったのも事実です。
新しい時代の文章へ
 それまでの日本の文学作品は、ほとんど文語体で書かれていました。
 それを少しずつ話し言葉に近づけ、歴史的仮名遣いも使わないようにする試行錯誤が始まります。
「です・ます体」や「である体」が生まれたのも、この頃です。
文語体にこだわった小説家
森鴎外、樋口一葉など
歴史的仮名遣いは残しつつ、口語体を開拓した小説家
夏目漱石など
新しい文体を生み出した小説家
山田美妙(ですます体)、尾崎紅葉(である体)、二葉亭四迷(だ体)、など
この時代のエンタメ小説
 夏目漱石や二葉亭四迷など、あきらかに大衆文学のはずですが、なぜかエンタメ小説という感覚がしないのはなぜでしょうね?
 けっして明治のエンタメ小説が衰退したわけでもないのに、書いていた作家がビッグネームになりすぎたのと、続く大正時代での広がりの大きさで錯覚してるのでしょうか?