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ネオコン【Neocon】
 新保守主義。Neoconservatismの略。
 表向きは「伝統的な価値観を守る」とされるが、実際はアメリカの価値観を全世界に押しつけようとする新帝国主義でもある。
 なお、戦前の孤立主義時代のアメリカへ戻ろうとする人たちも含む場合もある。

 

ネフィリム【Nephilim】
 聖書に出てくるノアの洪水前の世界にいた巨人。
 語源は「(天から)堕ちた者」。
 中国の古い伝説にも有史以前には身長9mの『長人』がいたと言い伝えられている。

 

眠気【ねむけ】
 眠気に関するスピリチュアル的な解釈。
睡眠不足、生活の乱れ、何らかの病気
 一般的な健康解釈。
生き方を間違えたサイン
 スピリチュアルで注意する、運命の選択を間違えた時のサインの一つ。
 前以上に気苦労が増えてストレスが溜まるため、自然と睡眠を強く欲するようになるのだとか。
 無理をしても続けるべきだったのに、やめた結果、別の苦労を背負い込んだとか……。
これから運命が大きく変わるサイン
 思い当たる理由が見つからない場合、神様が今のうちに体を休ませて、来るべき時のために体力を蓄えさせているのだとか。

 

ネロ(暴君ネロ)【Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus】
 初期のキリスト教を迫害したとされるローマ皇帝。在位期間は西暦54年〜68年。様々な奇行が歴史的事実として語られてきた。
 近年、歴史の見直しで名誉回復がはかられ、ネロの悪名はキリスト教徒によるプロパガンダであったと判明しつつある。
タキトゥスの記録
 第一級の歴史資料として、同時代を生きた政敵タキトゥスの書いたネロに関する記述がある。
 彼はネロの政敵ではあるが、けっして批判ばかり書いてない。それどころ、かなりの善政であったと書き残している。
 なお、歴史学者によれば「リアルタイムの記録ではなく晩年の回顧録なので、間違った記憶で書かれたものもある」だそうだ。
キリスト教徒迫害の事実
 1〜2世紀の記録からは迫害の事実は出てこない。むしろキリスト教徒の迷惑行為──強引な布教活動、街中での会合、集団で行動など──の記録ばかりが出てくる。
 迫害が言われ始めるのは、デキウス帝(249〜251)の治世から。
キリスト教徒の3派対立
 西暦60年頃、初期のキリスト教は3つの派閥に分かれて互いに殺し合うほどの争いになった。
 それに市民が巻き込まれる事件が頻発したため、制圧のために軍隊が乗り出す事態になっている。
 ここは明らかにキリスト教徒側の問題。
マサダ砦の惨劇?
 西暦66年、準州での自治を認められていたユダヤ人たちが独立戦争(ユダヤ戦争)を起こした。
 マサダ砦の戦いは、西暦70年にあった籠城戦。ここへ逃げ込んだユダヤ教徒たちがローマ軍に襲われて大勢の犠牲者を出した。
 
 歴史を知っていれば、この事件とキリスト教徒の迫害はいっさい関係ないとわかる。
 ところがキリスト教関連の本ではマサダ砦に立てこもったのはキリスト教一派のエッセネ派だったと教えている。ゆえにネロによる迫害の証拠という理屈だ。
 そもそもマサダ砦の攻防戦が始まった頃の皇帝はネロではない。
ローマ大火の真実
 ローマ時代の建物というと石造りをイメージするが、実際にはネロの治世にはまだ木造の建物が多かった。中でも貧民街は木造の家々が所狭しと建てられていたため、そこで起きた火事が一気に広がったのが西暦64年にあったローマ大火の真実のようだ。
大火の被害
 西暦64年の大火で、ローマにあった3分の2の建物が焼失した。
 火は貧民街だけでなく、高級住宅地であったパラティーノの丘にも及び、そこに建っていた神殿や貴族住宅も焼けて多くの宝物や美術品が失われた。
 ネロが居住していた邸宅も完全に焼け落ちている。
大火におけるネロの行動
 政敵タキトゥスの記録によると、ネロは自宅が燃えているにもかかわらず、陣頭に立って消火活動や被災者の救済活動を指揮したという。
 また鎮火後はまた木造の家が建ち並ばないように、迅速にローマン・コンクリートによって建築するように有効な政策を指示したようだ。そのため当時の市民たちの評価は高かったという。
キリスト教徒は放火犯か
 当時の記録には、この大火の件でキリスト教徒が処刑されたとは1文も書かれてない。
 これが最初に出てきたとされるのは、大火から半世紀以上あとに書かれたスエトニウスの伝記『ローマ皇帝伝』だ。この中でネロの善政を伝える文章があり、そこにキリスト教徒の処刑の話がひとこと触れられている程度。(おそらくパウロの処刑)
 とはいえ、この伝記は歴史書ではなく逸話集であるために、それぞれの時系列はわからない。そのため、この処刑が大火と関係があるのかどうかすらハッキリしない。
 以上、少なくとも1〜2世紀に書かれた記録からは、ネロが放火した話も、キリスト教徒に罪をなすりつけた話もいっさい出てこない。
 ゆえに後世の創作、風評にすぎないと解釈できる。
ネロ祭りの真実
 元々芸術家を目指していたため、その野望を実現しようとネロ祭という芸術祭を創設し、そこに自分の作品を出品したという。
実はオリンピアの祭典だった
 当時は5年に1度オリンピアの祭典が行われ、ネロの治世にも3度催された。
 このオリンピアの祭典はスポーツだけのお祭りではなく、芸術部門の競技もあって、互いに美を競い合っていた。
ネロは強引に参加したのか?
 ネロは皇帝に即位した翌年の祭典には参加していない。60年に竪琴、詩吟、弁論の3部門に出場、65年にも竪琴と詩吟の2部門に出場している。
 これにネロが強引に参加したという事実はない。
 おそらくは現在の政治家と同じで、腕に覚えのある部門に林の賑やかしとして作品を出しただけだろう。
浪費疑惑の真実
 ネロは最初の5年間は善政を布いていた。だが、59年に母を殺すと一転して浪費家となって国家財政を苦しくしたという。
ローマはデフレ経済に苦しんでいた
 ローマは西暦27年からパクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる政治の安定期に入った。そのおかげで物価が少しずつ下がり始め、それが長期化してネロの治世に入る前から深刻なデフレ経済に悩まされるようになった。
 長期化する不況に苦しめられた市民は、各地で暴動を起こすようになった。これは暴君への抗議ではなく、あくまで生活苦の訴えだ。
 そこで大規模な財政出動をして、そういう人たちに仕事を与えたのが、経済の何たるかを知らない人たちの目には浪費に映ったのだろう。
同じ時代にあった別の理由の暴動
 ローマが平和な時代になったために、ネロは財政出動する分を捻出するために軍隊を縮小しようとした。
 ところが軍隊は、非ローマ市民がローマ市民になるために何年間か従軍する義務を課した制度でもある。軍隊の縮小はローマ市民への受け入れ枠の縮小でもあるため、それでは困る人たちが大勢出てきた。すでに従軍してる兵士の中にも途中で軍を解散されてはローマ市民になれなくなる者がいたため、軍隊も暴動に参加することになった。
とばっちりはキリスト教徒に
 軍隊の中には暴動ではなく、キリスト教徒を制圧することで存在感をアピールする動きも出てきた。
 これが将来的にネロを暴君にする伏線になっていた可能性がある。

 

念あたり【ねんあたり】
 神社にお参りしたり、パワースポットを訪問した時に起こる霊障の一種。
霊障の症状
  • 体調不良。
  • 不運、不幸。
霊障の原因(共通)
  • 我欲を持った人が集まりやすいため、それで溜まった悪い念にあてられた。
  • 病院で院内感染して病気をもらってくるように、悪い霊を拾ってきた。
霊障の原因(神社)
  • 神様が一気に悪い霊を払ってくださったために、気の流れが変わって不調を起こした。
        神様のおもてなしの行き過ぎ。
  • お参りした神社の主神と産土(うぶすな)の相性が悪くて、気の流れが乱れて不調を起こした。
  • 無礼なお参りの仕方をしたため、神様に怒られた。
  • 直前に来た失礼な参拝客のとばっちり。
        どんなに霊格の高い神様でも、虫の居所が悪くなる時はある。
        そういう時に霊的に目立つ人が来ると、ついその人に怒りをぶつけることがあるらしい。
        反対に、お参りした時のタイミングが良ければ、神様に目をかけてもらえる裏返しでもある。