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    地震の巻(全文)
全帖図形のみのため、以下の文言は霊能者によって解読されたもの

 

地震の巻〜第1帖  →超訳

我々の一切は生まれつつある。
神も宇宙も、(しん)()(ばん)(しょう)ことごとくが、常に生まれつつある。
太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生まれ続けている。
一定不変の神もなければ、宇宙もない。
常に弥栄(いやさか)えつつ、限りなく生まれに生まれゆく。
過去もなければ、現在もなく、未来もない。
ただ存在するものが生まれに生まれつつある。
生もなければ死もない。
善も思わず真も考えず、美も思わない。
ただ自分自身のみの行為はない。
ただ生まれ栄えるのみである。
善を思い悪を思うのは、死を作り出すことである。
ゆえに地上人が自分自身でなすことは、すべて永遠の生命なく、
弥栄(いやさか)はあり得ない。
なぜならば、地上人は、地上的善を思い、悪を思い、
真を思い、偽を思うからである。
思うことは行為することである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、
そこには存在以外の何ものもないのである。
存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。
何ものも、それ自らは存在しない。
弥栄(いやさか)しない。
必ず、その前なるものによって呼吸し、脈打ち、生命し、存在し、弥栄(いやさか)する。
また、すべてのものの本体は、無なるがゆえに永遠に存在する。
地上人は、生前に生き、生前に向かって進みゆく。
また、地上人は、地上に生き、地上に向かって進みゆく。
また、地上人は死後に生き、死後に向かって進みゆく。
しかし、そのすべては神の中での存在である。
それ自体のものはない。
善でもなく、悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ。
霊人に空間はない。
それは、その内にある情動によって定まるがゆえである。
また、その理によって一定せる方位もない。
また時間もなくただ情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするがゆえに、宇宙のすべてを創られたもののごとく考えるが、
創造されたものではない。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。
宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、さらに常に神と共に永遠に生まれつつある。
その働きは愛と現れ、真と見ゆるも、愛というものはなく、
また、真なるものも存在しない。
ただ大歓喜のみが脈打ち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄(いやさか)するのである。
存在は千変万化する形において、絶えず弥栄(いやさか)する。
 それはゝ◯であり、なるがゆえである。
 ゝ◯は大歓喜の本体であり、はその働きである。
それは、善でもなく悪でもない。
真でもなく、偽でもない。
美でもなく、醜でもない。
また愛でもなく、憎でもない。
プラスでもなければマイナスでもない。
しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、
美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、
二義的には現れ、働き、存在として、またはたらく。
善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。
それらのすべては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。
それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りて止まず、
止まるところなく生長し、歓喜しつつあるがためである。
神が意図するということは、神が行為することである。
そして、さらに神の行為は、弥栄(いやさか)であり、大歓喜である。
神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、
地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。
神の歓喜を内的に受け入れる霊人の群れは無数にあり、これを月の霊人という。
月の霊人の喜びが、地上人として地上に生まれて来る場合が多い。
日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るがゆえに、
そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、
直接、地上人として生まれ出ることは、極めてまれである。
月の霊人は、神の歓喜をその智の中に受け入れる。
ゆえに、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。
地上人は、この月の霊人の性をそのまま受け継いでいる場合が多い。
日の霊人は、神の歓喜をそのまま自分の歓喜とするがゆえに、
何等それについて疑いを持たない。
月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるがゆえに、
これを味わわんとし、批判的となる。
ために二義的の歓喜となる。
ゆえに、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。
おのずから、別の世界を創り出すがゆえに、
原則としては、互いに交通し得ないのである。
この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。
これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄(いやさか)するのである。
地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。
それは、別の世界に住んでいるためであって、
その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。
以上のごとくであるから、日と月、愛と真、善と美も、本質的なものではなく、
二義的なものである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第2帖  →超訳

天界も無限段階、地界も無限段階があり、
その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。
その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、
全面的交流はないのである。
なぜならば、自らなる段階的秩序を破るからである。
秩序、法則は神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。
しかし、同一線上における横の交流は、可能である。
それはちょうど、地上における各民族がお互いに交流し、融和し得るのと同様である。
すべて分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈打たない。
分類しては、生命の統一はなくなる。
そこに、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、
半面では、平面的には割り切れない神秘の働きが生じて来る。
一なるものは平面的には分離し得ない。
二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。
分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、
立体的神秘の中に秘められている。
ゝについては一なるも、◯においては二となり、
三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。
一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、
また、真は真のみにて真となり得ない。
神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は、存在しない。
しかし、大歓喜にまします太神のゝは、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄(いやさか)する。
それは立体をはるかに超えた超立体、無限立体的無の存在なるがゆえである。
霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、
地上人は、その内的形式からすれば霊人である。
生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。
すなわち、死後は生前の形式による。
形式は愛と現れ、真と現れ、善と現れ、美と現れる。
しかして、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、
歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。
愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、
現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。
これら二つが相関連せるを外の真という。
外の愛も外の真も共に生命する。
人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見ればわかるであろう。
表面的なるものの動きも、内面的に関連性を持つ。
ゆえに、外部的に曲げられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。
許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄(いやさか)すればこそである。
浄化し弥栄(いやさか)しゆく悪は悪でなく、偽は偽ではない。
動かざる善は善ではなく、進展せぬ真は真ではない。
さらに善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄(いやさか)するのを歓喜という。
歓喜は神であり、神は歓喜である。
一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、
みなこれ歓喜する歓喜の現れの一つである。
生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄(いやさか)える。
ゆえに本質的には善悪のないことが知られるであろう。
死後の世界に入った最初の状態は生存時とほとんど変化がない。
先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。
夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再び繰り返すことができるのである。
霊界は想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。
しかし、かくのごとき死後の最初の状態は長くは続かない。
なぜならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、
その世界以外は想念の対象とならないからである。
しかして、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままに続いているから、
外部的のもののみが強く打ち出される。
ゆえに、外部の自分にふさわしい環境におかれるが、
次の段階に入っていくと、外部的なものは(ぜん)()薄れて、
内分の状態に入っていくのである。
内分と外分とは、互いに相反するが、霊人の本態は内分にあるから、
この段階に入って始めて本来の自分に還るのである。
生存時においては、地上的な時、所、位に応じて語り、
行為するがために、限られた範囲外には出られないが、
内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。
生存時に偽りのなかった霊人は、この情態に入って始めて真の自分を発見し、
天国的光明を開くのである。
偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、
地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。
かくすることによって、生存時における、あらゆる行為が清算されるのである。
この状態に入ったならば、悪的なものはますます悪的なものを発揮し、
善的なものは善的な(ちから)をますます発揮する。
ゆえに、同一の環境には住み得ないのである。
かくして、諸霊人は最後の状態に入り、
善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、
善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、かつ行為することになる。
そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第3帖  →超訳

愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。
地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。
地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。
地上人は常に霊界により弥栄(いやさか)する。
弥栄(いやさか)は順序、法則、形式によって成る。
ゆえに、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄(いやさか)なく、
生まれ出で呼吸するものはあり得ない。
個の弥栄(いやさか)は、全体の弥栄(いやさか)である。
個が、その個性を完全に弥栄(いやさか)すれば全体はますますその次を弥栄(いやさか)する。
個と全体、愛と真との差がますます明らかになれば、
その結合はますます強固となるのが神律である。
霊界と物質界は、かくのごとき関係におかれている。
そこにこそ、大生命があり、大歓喜が生まれ、栄えゆくのである。
さらに、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。
極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。
極内は極外に通じてを為す。
すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。
かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現れる。
これによって、新しくすべてが生まれ出る。
太陽は、神の生み給えるものであるが、
逆に太陽から神が、さらに新しく生まれ給うのである。
は絶えず繰り返され、さらに新しきすべては、
神の中に歓喜として(はら)み、生まれ出て、さらに大完成に向かって進みゆく。
親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が生まれ出ずるのであることを知らねばならない。
されば、その働きにおいては千変万化である。
千変万化なるがゆえに、一である。
一なるがゆえに、永遠である。
愛は愛に属するすべてを愛とし、善をなさんとするがゆえに悪を生じ、憎を生じ、
真は真に属するすべてを真とし美となさんとするゆえに偽を生じ、醜を生じるのである。
悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。
悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。
共に神の御旨の中に真実として生きるのである。
真実がますます単にしてますます充実し、円通する。
  されば、ゝ◯の中のゝの中なるゝ◯のゝの中なる一切万象、
万物中のもっとも空にして無なるものの実態である。
これが、大歓喜そのものであって、
神は、このゝに弥栄(いやさか)し給えるがゆえに、
最外部の◯の外にも弥栄(いやさか)し給うことを知覚し得るのである。
始めなき始めのゝの真ん中の真空にいますがゆえに、
終わりなき終わりの◯の外の無にいまし、
中間に位する(ちから)の中にも生命し給うのである。
一物の中のゝなるがゆえに一物であり、
万象万物であることを知覚しなければならない。
生前の様相であり、呼吸するがゆえに死後の呼吸と続き、
様相として弥栄(いやさか)ゆるのである。
神が生み、神より出て、神の中に抱かれているがゆえに、
神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。
歓喜に向かうことは親に向かうことであり、根元に通じることである。
世を捨て、外部的、肉体的諸慾を捨てた生活でなければ、
天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。
なぜならば、地上人における肉体は、
逆に霊の守護をなす重大な役目を持っているからである。
地上人が、その時の社会的、物質的生活を離れて、
霊的生活にのみ入るというのは大いなる誤りであって、
社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。
天国を動かす(ちから)は地獄であり、光明を輝かす(ちから)は暗黒である。
地獄は天国あるがゆえであり、暗黒は光明あるがゆえである。
因は果にうつり、呼が吸となりゆく道程において、
歓喜はさらに歓喜を生じる。
その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。
呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼もまた長くなる。
ゆえに地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、
神の脈打つ一面の現れであることを知らねばならない。
天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、
地獄にも無限の段階と無数の集団がある。
なぜならば、天国のいかなる状態にも対し得る同様のものが
自らにして生み出されねばならぬからであって、
それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の調整が行われるからである。
この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、
醜は醜ではなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。
地獄は本来ないのである。
また、この平衡の上におかれた場合は、
善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国でない。
ただひたすらなる大歓喜が弥栄(いやさか)えるのみである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第4帖  →超訳

同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄(いやさか)え、
然らざるものは、その内蔵するものの度合いに正比例して遠ざかる。
同類は相寄り、相集まり、(むつ)び栄ゆ。
生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、
また死後の世界に通じる。
同気同一線上にいる霊人たちは、かって一度も会せず語らざるも、
百年の友であり、兄弟姉妹であるごとく、
お互いに、そのすべてを知ることができる。
生前の世界における、かかる霊人が肉体人として生まれ出でた場合の多くは、
同一の思想系を持つ。
ただし、地上人としては、時間と空間に制限されるがゆえに相会し、
相語られざる場合も生じて来る。
また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。
霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、
部分的には相違し、同一のものは一としてない。
そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄(いやさか)え、
愛を生じ、真が湧き出て来るのである。
生前の霊人の場合は、自分自身の持つ内の情動はそのままに、
その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現れていて、
いささかも反する顔面を持つことは許されない。
一時的に満たすことはできても、長くは続かない。
この情態の原理は、地上人にも、反影している。
生前の世界は、以上のごとくであるから、
同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、
少なければ、その集団は小さい。
数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。
各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、
一つの家族的小集団が自らにでき上がっている。
そしてまた、各々の集団の中心には、
その集団の中にてもっとも神に近い霊人が座を占め、
その周囲に(いく)()にも、内分の神に近い霊人の順に座を取り囲み運営されている。
もしそこに、一人の場所、位置、順序の違いがあっても、その集団は呼吸しない。
しかして、それは一定の戒律によって定められたものではなく、
惟神(かむながら)の流れ、
すなわち歓喜によって自ら定まっているのである。
またこれら集団と集団との交流は、地上人のごとく自由ではない。
  すべてはゝ◯のゝを中心としてゝ◯の姿を形成しているのである。
ゝと◯とを、生前の世界において分離することは極めて至難ではあるが、
ある段階に進む時は一時的に分離が生じる。
しかし、この場合もゝはゝであり、◯は◯である。
これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、
その分離、乱用の度がさらに加わって、真偽混乱に及ぶものである。
悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるがごとく写し出されるのである。
生前界では、悪を意志して悪を行うことは、御用の悪として自ら許されている。
許されているから存在し、行為し現れているのである。
 この場合の悪は、悪にあらずしてゝ◯の◯であることを知らねばならない。
すなわち、道を乱すがゆえである。
地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。
愛は真により、真は愛により向上し、弥栄(いやさか)する。
その根底(ちから)をなすは歓喜である。
ゆえに、歓喜なきところに真実の愛はない。
歓喜の愛は、これを愛の善という。
歓喜なき愛を、愛の悪というのである。
その歓喜の中に、また歓喜あり、
 真があり、真の真と(あらわ)れ、ゝ◯となり、
 ゝと集約され、その集約のゝの中にゝ◯を生じ、さらになおゝと弥栄(いやさか)る。
生前の世界、死後の世界を通じて、
一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。
大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。
千変万化、常に弥栄(いやさか)する姿であり、大歓喜である。
完成より大完成に向かい進む大歓喜の呼吸である。
されど、地上人においては、地上的物質に制限され、
物質の約束に従わねばならぬ。
そこに時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。
ゆえに同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。
そこに、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。
霊人においては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。
一時的には仮面を被り得るが、
それは長く続かず、自分自身絶え得ぬこととなる。
地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。
しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために
課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚すなければならない。
悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。
なぜならば、それがあるために弥栄(いやさか)し、進展するからである。
悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、
すべてを殺す結果となるからである。
霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和あって、
初めて(ちから)し、歓喜し、弥栄(いやさか)するからである
霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。
生長、呼吸、弥栄(いやさか)は、そこに歓喜となり、神と現れ給うのである。
霊人も子を生むが、その子は歓喜である。
歓喜を生むのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第5帖  →超訳

全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
ゆえに、宇宙そのものが、神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現れの一部である。
過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、
地上人としては地上人の中に、霊界人にあっては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。
ゆえに、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。
部分部分が雑多なるゆえに、全体は存在し、(ちから)し、弥栄(いやさか)し、変化する。
ゆえに歓喜が生じる。
本質的には、善と(まこと)は有であり、悪と偽は影である。
ゆえに、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。
影なるがゆえに悪は善に、偽は(まこと)に働き得ない。
悪の働きかけ得る(まこと)は、真実の(まこと)ではない。
悪はすべてを(みずか)らつくり得、生み得るものと信じている。
善はすべてが神から流れ来たり、(みずか)らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。
ゆえに、悪には本来の(ちから)はなく、影にすぎない。
善は無限の(ちから)を受けるがゆえに、ますます弥栄(いやさか)する。
生前の世界は有なるがゆえに善であり、死後の世界も同様である。
生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。
生前の行為が生後審判され、(むく)いられているのではあるが、
それは、悪因縁的には現れない。
そこに、神の大いなる愛の現れがあり、喜びがある。
悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現れるものではない。
なぜならば、大神は大歓喜であり、
三千世界は、大歓喜の現れなるがゆえにである。
地上人的に制限されたる感覚の範囲においては、悪と感覚し、
偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、
それはいずれもが弥栄(いやさか)である。
これを死後の生活にうつされた場合もまた同様である。
要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。
この一貫して弥栄(いやさか)し、大歓喜より大々歓喜に、
さらに超大歓喜に向かって弥栄(いやさか)しつつ永遠(とわ)生命(いのち)する真相を知らねばならぬ。
しかし、天国や極楽があると思念することは、
すでになき地獄を自ら作り出し、生み出す(もと)である。
本来なきものを作り出し、一を二に分ける。
だが、分けることによって(ちから)を生み弥栄(いやさか)する。
地獄なきところに天国はない。
天国を思念するところに地獄を生ずるのである。
善を思念するがゆえに、悪を生み出すのである。
一あり二と分け、離れてまた、三と栄ゆるがゆえに歓喜が生まれる。
すなわち、一は二にして、二は三である。
生前であり、生後であり、死後であり、なおそれらのすべては◯である。
 ◯はでありゝ◯であり、ゝと集約される。
ゆえに、これらのすべては無にして有である。
人の生後、すなわち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、
また死後の生活に、そのままにして進み行く、
立体となり、立々体と進み、弥栄(いやさか)するところに尽きざる歓喜があり、
善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、
一の段階より二の段階へ、さらに三の段階へと弥栄(いやさか)浄化する。
浄化、弥栄(いやさか)することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。
ゆえに、神の中に神としてすべてが弥栄(いやさか)するのである。
ことごとくの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、
以上述べた神の意志、行為、弥栄(いやさか)と離れたものである。
歓喜に審判なく、神に戒律なない。
戒律は弥栄(いやさか)進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。
このことは神(みずか)らを切断することである。
裁きはあり得ず、戒律はつくり得ず、
すべてはこれ湧き出でる歓喜のみの世界となることを知らなければならない。
行為は結果である。思念は原因である。
原因は結果となり、結果はただ、結果のみとして終わらず、新しい原因を生む。
生前の霊人は、生後の地上人を生む。
地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、さらに原因となって生前の霊人を生む。
 ゝ◯はとなりて廻り、(きわ)まるところなくして弥栄(いやさか)える。
以上述べたところによって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであるう。
されば、常に歓喜に向かってのみ進むのである。
これはただ、霊人や地上人のみではない。
あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象のことごとくが同様の律より一歩も出でず、
その極内より極外に至るのみ。
ゆえに地上世界のことごとくは生前世界にあり、かつ死後の世界に存在し、
これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一である。
生前の呼吸はそのまま生後、死後に通じる。
地上におけるすべては、そのままにして生前なるがゆえに、
生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、兄弟姉妹あり、
友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。
地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像のごとく感覚されるものである。
しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。
時、所、位による美醜、善悪、
また過去、現在、未来、時間、空間のことごとくを知らんとすれば、
以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第6帖  →超訳

霊界人は、その向いている方向が北である。
しかし、地上人のいう北ではなく、中心という意味である。
中心は、歓喜の中の歓喜である。
それを(もと)として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。
霊界人は地上人が見て、いずれの方向に向かっていようと、
その向かっている方向が中心であることを理解しなければならない。
ゆえに霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。
それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、
それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。
要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。
地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向に向かっていようとも、
同じく、それぞれの中心歓喜に向かって座し、向かって進んでいる。
上下、左右、前後に祈り重なっていると見えても、
それは決して、地上人のあり方のごとく、霊人たちには障害とならない。
各々が独立していて、他からの障害を受けない。
しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。
各自の眼前にそれ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。
それは、霊人たちが目で見るものではなく、
(ひたい)で見、(ひたい)で感じ、受け入れるのであるが、
その(ひたい)は、身体(からだ)全体を集約した(ひたい)である。
地上人においても、その内的真実のものは(ひたい)でのみ見得るものであって、
目に見え、目に映るものは、地上的約束下に置かれ、映像された第二義的なものである。
映像として真実であるが、第一義的真理ではない。
ゆえに、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのではない。
内質においては同一であるが、現れ方や位置においては相違する。
ゆえに、霊界人が現実界を理解するのに苦しみ、
地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。
霊人の中では太陽をもっとも暗きものとして感じて、
太陽に背を向けて呼吸し、生長しているという。
地上人には理解するに困難なことが多い。
要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、
かつ受け入れて生活しているのであるが、
そこにも、それ相応な歓喜があり、真実があり、生活がある。
歓喜の受け入れ方や、その厚薄の相違はあるが、
歓喜することにおいては同様である。
歓喜すればこそ、かの霊人たちは太陽に背を向け、
光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。
この霊人たちを邪霊と呼び、邪気といい、
かかる霊人の住むところを地獄なりと、多くの地上人は呼び、
かつ感じ、考えるのである。
しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。
霊界においては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。
なぜならば、思念による思念の世界につながるゆえである。
現実界に見ては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、
全然その感覚外に置かれるために、その対象とはならない。
地上人においても原則としては同様であるが、
地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。
交叉混交はしても、同一方向には向かっていない。
そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、
別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第7帖  →超訳

地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には霊界の順序があり、法則がある。
霊界が原因の世界であるからといって、
その秩序、法則をそのまま地上には移し得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行い得ない。
しかし、これらのすべては大神の歓喜の中に存在するがゆえに、
歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。
その秩序、法則、統一は一応完成しているのであるが、
その完成から次の完成へと弥栄(いやさか)する。
ゆえにこそ弥栄(いやさか)の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。
これが生命の本体であって、限られた智によって、この動きを見る時は、
悪を許し、善の生長弥栄(いやさか)を殺すがごとくに感じる場合もある。
しかし、これこそ善を生かして、さらに活力を与え、
悪を浄化して必用の悪とし、必然悪として生かすのである。
生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。
本来悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。
これは、生前、生後、死後の区別なく、すべてに通じる歓喜である。
一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、
一の天界は、極めて低い(とら)われの水の世界であったことを体得する。
さらに一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。
地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、
三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。
悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、
この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ないごとく、
地上人に至っては極めて(まれ)であることを知らなくてはならない。
悪を悪なりと定めてしまって、悪はすべて祖先より、
あるいは原因の世界より伝えられたる一つの因果であるという
平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べたところで明白となり、
(おのれ)を愛するは、まず悪の第一歩なりと考える、
その考えが悪的であることを知らねばならぬ。
来たるべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む想念はなくなる。
しかし、それが最高の理想郷ではない。
さらに弥栄(いやさか)して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなけばならぬ。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第8帖  →超訳

生前の世界に、霊人が生活している。
山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。
しかし、それは最初からのものではない。
それらの元をなすゝが歓喜していた、そのゝが生後、地上世界に移されて、
地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、
その結果が、死後の世界に続き、死後の世界の様相はゝの原理によって、
生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄(いやさか)し、
そのゝを幾度となく繰り返すうちに、
漸次、内的ゝに向かって弥栄(いやさか)する面と、外的、地上的に進むゝと、
その交叉融和することによってさらに生み出され弥栄(いやさか)するゝと、
その各々が各々の立場において、進み、呼吸し、脈打ち、生命していると同時に、
全体的にも生命し、歓喜し、弥栄(いやさか)している。
しかして、その現れとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。
また、生命の大歓喜として湧き出ている。
ゆえに地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、
霊人により生み、霊人により育てられると同時に、
人々より生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。
かく弥栄(いやさか)進展するがゆえに、人類も霊人類も、
各々その最後の審判的段階に入るまでは、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。
ゆえに新天新地の来るまで、真の天国を体得し得ない。
新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ない。
この新天新地は幾度となく繰り返されているが、
いずれもゝの形におけるがごとく同一形式のものではあるが、同一のものではない。
より小なるものより、より大なるものが生まれ、
より大なるものより、より小なるものが生まれ、
より新しきものより、より古きものが生まれ、
より古きものより、より新しきものが生まれ、
弥栄(いやさか)し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、
さらには一つとなることを理解しない。
月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれるということを理解するのに苦しむのであるが、
最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。
これは外部的なる智によらず、内奥の神智に目覚めることによってのみ知り得る。
新天新地新人はかくして、生まれ、呼吸し、弥栄(いやさか)える。
しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、その以前の自分のすべては失わない。
ただその位置を転換されるのみである。
地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、
その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。
その状態よりもなお一層、そのままであって何らの変化もないと思えるほどである。
(うじ)が蝶になるごとく弥栄(いやさか)えるものであって、それは大いなる喜びである。
なぜならば、大歓喜なる大神の中において、
大神のその質と性とを受け継ぎ呼吸しているからである。
すべてのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。
歓喜がその目的であるがゆえに、歓喜以外の何ものも意識し得ない。
ゆえに、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。
生前の霊人が地上人として生まれて来るのも死ではなく、
地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、
弥栄(いやさか)なる誕生であることを知らねばならぬ。
歓喜は行為となる。
行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。
ただ考えたり意志するのみでは萌え出でない。
生命しない。
ただ意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。
霊界においては意志することは、ただちに行為となるのである。
地上人にあっては物質によって物質の中に、
その意志を行為することによって初めて歓喜となり、
形体を為し弥栄(いやさか)えるのである。
生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、
その中間の三段階を加えて七つの段階にまず区別され、
その段階において、その度の厚薄によって幾区画にも区別され、
霊人の各々は自らの歓喜にふさわしいところに集まり、
自ら一つの社会を形成する。
自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。
否、苦しくて住み得ないのである。
もしその苦に耐え得んとすれば、
その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。
例えば、愛の歓喜に住む霊人は、
その愛の内容いかんによって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、
同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。
ゆえに生前の世界では自分の周囲、自分の感覚し得るもののことごとくが、
もっともよく自分に似ており、自分と調和する。
山も川も家も田畑も、そこに住み霊人たちも、
動物も植物も鉱物も、すべて自分自身と同一線上にあり、
同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、
それらのすべてが大きな自分自身と映像する場合が多い。
自分は他であり、他は自分と感覚する。
ゆえにその性質は生後にも続き、
地上人もその周囲を自分化しようとする意志を持っているのである。
しかし地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。
死後の世界もまた生前と同様であるが、
一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。
だが、いずれにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ち切ることはできない。
物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を持つが、
霊的角度から見れば永遠性は持たない。
しかし、物質面より見れば永遠性を持つものであり、
永遠から永遠に弥栄(いやさか)してゆくものである。
しかして永遠性を持つ事物は、
地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。
無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、
その融合の上に生命が歓喜するのである。
無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第9帖  →超訳

霊、力、体の三つがよりよく調和するところに真実が生まれ、生命する。
これは根元からの存在であり(はたらき)であるが、
動き弥栄(いやさか)する道程において、復霊、復力、復体の(動き)をなす。
霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、
体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。
悪あればこそ善が善として救われ弥栄(いやさか)する。
善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。
悪は悪善としての神の中に、善は善悪として神の中に弥栄(いやさか)える。
力がそこに現れ、呼吸し、脈打って生命する。
ゆえに生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、
地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。
地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、
生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄(いやさか)してゆく。
しかして、なお地上人は死後の世界に通じなければならぬ。
死後の世界との関連により複数的悪善に置かれる。
善悪善の立場に置かれる場合が多いために、
地上における司宰神としての力を自ら与えられるのである。
善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。
善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。
ゆえに神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
なぜならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるがゆえである。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、
地上的物質的の方向、法則下に、すべてをはめんとなす限られた科学的平面的行為であって、
その行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、
三千世界は弥栄(いやさか)となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄(いやさか)の生命となる。
地上人のもつ想念の本は霊人そのもであり、霊人のもつ想念の本は大歓喜である。
ゆえに、地上人は霊人によってすべての行為の本をなし、
霊人は神により、神は大歓喜によってすべての行為の本とする。
ゆえに地上人そのもののみの行為なるものはない。
いずれも、神よりの内流による歓喜の現れであることを知らねばならぬ。
歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。
霊に属するものは常に上位に位し、
体に属するものは、常に下位に属するのであるが、
体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。
しかし、差のない立場において差をつくり出さねば、力を生み出すことはできず、
弥栄(いやさか)はあり得ない。
すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。
動きがあるがゆえに、反動があり、そこに力が生まれてくる。
霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。
体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。
悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。
常に動き栄えゆく、大和のを中心とする上下、左右、前後に円を描き、
中心をゝとする立体的動きの中に呼吸しなければならない。
それが正しき惟神(かむながら)の歓喜である。
惟神(かむながら)の歓喜はすべてのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄(いやさか)する。
ゆえに永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第10帖  →超訳

地上人は、内的に生前の霊人と通じ、また死後の霊人と通ずる。
地上人が、生前を知得するのは、この霊人を通ずるがゆえであり、
死後を知得するのも、また同様に通ずるからである。
生前と死後は同一線上に置かれているが同一ではない。
地上には物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。
その形式は歓喜の交叉し、発するところによって自ら成るものである。
形式なくしては合一なく、力なく、形式あるがゆえにものがすべてに合一し、
弥栄(いやさか)し、力し、大弥栄(いやさか)するのである。
形式の中に和することは、その個々が差別されているからである。
差別し区別せられることは、その各々に、各々が共通する内質を持つからである。
共通性なきものは差別し、区分することができない。
霊界と現実界との関係はかかるものであるがゆえに、
常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく。
これは、平面的頭脳では中々に理解しがたいのであるが、
この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、
永遠に弥栄(いやさか)する大歓喜に住するのである。
されば差別は、平等と合一することによって立体の差別となり、
平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。
霊人が地上人と和合し、また地上人が霊人と和合し、弥栄(いやさか)するのは、
この立体平等と立体差別との弥栄(いやさか)ゆるが為めであることを知らねばならぬ。
この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、
立体して行く力こそ、神そのものの力であり、歓喜である。
この二つの力と神の歓喜なくしては、地上人なく、また霊人もあり得ないのである。
生成発展もなく神の歓喜し得ない。
この力なくしては、地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない。
ゆえに生命しないのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第11帖  →超訳

霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。
同一線上にいる霊人の言葉は、いずれも同一であって共通する。
霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、
そのままにして通じるのである。
しかし、相手が聞くことを欲しない時には聞こえない。
それはちょうどテレビやラジオのごときものであると考えたらよい。
またその語ること、その語音によって、
その相手のいかなるものなるかを知り得るのである。
すなわち、その発音から、また言葉の構成から、
その霊人のいかなるものなるかは、ただちに判明する。
霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、
その表現は相違している。
ゆえに、霊人と地上人と会話する時は、
霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、
そのいずれかでなくてはならない。
しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、
その内蔵するものが極めて深く広いがゆえに、
霊人の一語は地上人の数十語、数百語に(あたい)する場合が多く、
その霊人が高度の霊人であればあるだけ、その度を増してくるのである。
原因と結果とを一にし、さらに結果より生じる新しい原因も、
新しい結果をも同時に表現し、
なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、
かつ一つの独立せる生きものとなって現れ、行為し、生命するからである。
言葉そのものが弥栄(いやさか)であり、生命である。
またすべてであるということは、地上人には理解できぬであろう。
それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、
さらに生前も、生後の立場においては生後であり、
死後の立場においては死後である。
また一里先も、百里先もまた千万里離れていても、
同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。
だが、地上人においてもそれを知り得る内的な生命をもっているのであるから、
理解することは困難であるが不可能ではない。
霊人の言葉は歓喜より発するがゆえに歓喜そのものであり、
神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。
歓喜の現れとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。
 ゆえに柔らかくて連続的であり、太陽のゝ◯(ひかり)と●(熱)とに(たと)えることができる。
また、歓喜の現れとして(まこと)に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。
ゆえに、清く流れ()でて連続的ではなく、ある種の固さを感じさせる。
そしてそれは月の光と、水のごとき清さとを感じさせる。
また前者は曲線的であって消極面を表に出し、
後者は直線的であって積極面を表に出している。
また前者は愛に住するがゆえに、主として()()の音が多く発せられ、
後者は智に住するがゆえに主として()()の音が多く発せられている。
そして、そのいずれもが()音によって統一要約する神密(しんみつ)極まる表現をなし、
またそれを感得し得る能力を持っている。
しかし、これらOU(おう)EI(えい)および()の母音は想念の□をなすものであって、
地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。
霊界における音楽もまた同様であって、
愛を主とした音楽は()および()を多分に含み、曲線的であり、
(まこと)を伝える音楽は()および()の音が多く、直線的である。
それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、
おのおのが霊界における生命の歓喜の表現なるが為めである。
またこれら霊人の言葉は、天的の韻律(いんりつ)をもっている。
すなわち愛を主とするものは、五七七律を、
(まこと)を主とするものは、三五七律を主としているが、
その補助律としては、千変万化である。
言葉の韻律(いんりつ)は地上人が肉体の立体を持っているごとく、
その完全、弥栄(いやさか)を示すものであって、
律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、
生命力がないのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第12帖  →超訳

霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に(ゆう)()するが為めである。
霊人が地上人に来る時は、その人の知るすべてを知ることとなるのであるが、
その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、
自分と自分が談話しているのである。
霊人は現実界と直接には接し得ない。
また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。
しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行うのと同様の結果となるのである。
為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。
地上人の想念の中には霊界が映像されており、
霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。
ゆえに、この二つの世界が一つに見えることもある得るのである。
しかし、映像と実相の(へだ)たりはかなり遠いものである。
霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、
その互いに交わされる談話においても前記のごとくであることを知らねばならない。
霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、かつ聞いているのである。
霊人が地上人に(ひょう)()したり、動物霊が人間に(ひょう)()したりすることは、
前記のごとき原則によってあり得ないのである。
しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、
その度の強くなった場合、地上人から見れば(ひょう)()せると同様の結果を現すものである。
ゆえに、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくて、
それぞれの順序を()て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語をを使用して語り、
その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。
しかし、神の言葉はいかに地上人を通じて人語としても、
その神に通じる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ないのである。
語れども聞き得ず、読むともその真意は通じ得ないのである。
霊人の中には自分たちの住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、
また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。
それはちょうど、地上人の多くが、生前および死後の世界を信じないと同様である。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第13帖  →超訳

地上人が、限りなきほどの想念的段階をもち、各々の世界をつくり出しているごとく、
霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念を持つ霊人が住んでおり、
常に弥栄(いやさか)しつつある。
下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、
その想念も上級霊界においては必ずしもそうではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、
真と現れ得ない場合がある。
そこに偉大にして、はかり知れざる弥栄(いやさか)の御神意がある。
と同時に、+(真善)✳(真善美愛)✹(歓喜)✺(大歓喜)と現れる神秘なる弥栄(いやさか)があり、
悪の存在、偽の必要性などが判明するのである。
ゆえに、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、
極めて危険極まりないものではあるが、
半面においては、極めて尊いものとなるのである。
下級霊人自身が(善)なりと信じて行為することが、
地上人には(悪)と現れることが多いのである。
なぜならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、
それと同一線上にある空想家であり、
極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性を持ち、他の世界を知らないからである。
そがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、
唯一絶対の大神の()(むね)なるがごとくに独断し、
ついには、自信自らが神の代行者なり、と信じるようになるからである。
いわゆる無き地獄をつくり出すからである。
地獄的下級霊の現れには、多くの奇跡的なものをふくむ。
奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現れであることを知らなければならない。
かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。
浄化し、改心し得ないものである。
また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。
脅迫や賞罰のみによっても向上し得ない。
すべて戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何らの向上も弥栄(いやさか)も歓喜もあり得ない。
半面、向上のごとくに見える面があるとも、半面において同様の退歩が必然的に起こってくる。
これは()いるが為めである。
神の歓喜には強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。
戒律あるところ必ず影生じ、暗を生み出し、カスが残るものである。
それは大神の内流によって弥栄(いやさか)する世界ではなく、影の世界である。
中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、
それはまた霊界の文字となって伝えられる。
霊界の文字は主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。
直線的なものは月の霊人が用い、曲線的な文字は太陽の霊人が使用している。
ただし、高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなすゝと◯と+があるのみ。
また高度の霊人の文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。
数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。
しかしこれは不変なものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、
地上人の文字に似てくるのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第14帖  →超訳

霊界には時間がない。
ゆえに霊人は時間ということを知らない。
そこには霊的事物の連続とその弥栄(いやさか)があり、歓喜によって生命している。
すなわち時間はないが状態の変化はある。
ゆえに霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念を持っている。
この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。
永遠ということは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。
ゆえに霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切を離れて、
状態とその変化による霊的なものによって語るのである。
しかし、この霊人の語るところを地上人が受け入れる時は、対応の(ことわり)により、
それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。
また地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るがゆえに、
固有的表現となり、地上人にも十分に理解し得るのである。
多くの地上人は、霊人を知らない。
霊人には、地上世界に顕現(けんげん)するすべてのものに霊体が存在するということを中々理解しないし、
霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々理解しない。
ただし死後の霊人は、相当に長い間地上世界のことを記憶しているものである。
地上人が、なぜ霊界のことを理解し難いかと言うと、
それは地上的物質的感覚と、地上的(こう)(みょう)の世界のみが、常にその対象となっているからである。
例えば霊人とは、地上人の心に通じ、あるいは心そのものであると考えるためである。
つまり霊人は心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもないと考えるからである。
ところが実際は、霊人そのものが手を持つがゆえに地上人に手があり、
指を持っているがゆえに、地上人に指が生ずることを知らなければならない。
しかも霊人は、地上人よりはるかに精巧にできていることは、
それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。
霊人は、地上人にまして一段の(こう)(みょう)の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。
霊界における事物はすべて霊界における太陽と、太陰とにより生まれてくる。
それは地上人おける場合と同じである。
太陽と太陰との交叉により生じる歓喜によって、
その生まれたるものはさらに一層の光輝を放ち、弥栄(いやさか)となる。
また、霊界には物質世界のごとく空間はない。
このことを地上人は中々に理解しないのである。
霊界における場所の変化は、その内分の変化に他ならない。
霊界に距離はない。空間もない。
ただ、あるものはその態の変化のみである。
ゆえに離れるとか、分かれるとかいうことは、内分が遠く離れていて、
同一線にないことを物語る。
物質的約束における同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、
その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。
ゆえに、地上的には同一場所に、同一時間内に存在するいくつかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、
およびあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、
ないのと同様であることを知り得るのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第15帖  →超訳

霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、
また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。
ゆえに、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類を持つ。
住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。
霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、
また、食堂もあり、風呂場もあり、物置きもあり、玄関もあり、庭園もある、
といったふうに、現実世界とほとんど変わりがない。
ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、
ことごとく同様であるということを意味する。
また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互いに並び建てられており、
地上における都会や村落とよく似ている。
その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。
そして、これらのすべてが霊界に存在するがゆえに、地上世界に、その写しがあるのである。
霊界を主とし、霊界に従って、地上に写し出されたのが、地上人の世界である。
地上人は、物質を中心として感覚し、かつ考えるから、真相がなかなかにつめない。
これらすべての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、
霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。
また天人の衣類も、その各々が持つ内分に正比例している。
高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。
彼らの衣類は、彼らの理智に対応しているのである。
理智に対応するということは、真理に対応するということになる。
ただし、もっとも中心近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。
この境地に至れば、すべてが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるがゆえである。
しかし他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、
千変万化の衣類を着せるごとく見ゆるのである。
また、衣類はすべて霊人の状態の変化によって変化して行くものである。
霊人はまた、いろいろな食物を食している。
言うまでもなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、
要するに歓喜を食べているのである。
食べられる霊食そのものも、食べる霊人もいずれも、
食べるということによって歓喜しているのである。
地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、
目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、
食物を身体全体から食べるものである。
そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、
一つの歓喜となることである。
霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、
食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通じる食物であり、食べ方ではあるが、
その歓喜の度合いおよび表現には大きな差がある。
食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。
以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、
食べているのか、食べられているのかわからないほどである。
また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。
現実社会における、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、
同類である動物性のものは好まない。
なぜならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなって来るからである。
霊人自身に近い動物的なものを食べると歓喜しないのみならず、
かえって不快となるからである。
そして霊人はこれらの食物を歓喜によって調理している。
そしてまた与えられたすべての食物は、ことごとく食べて一物も残さないのである。
すべての善はゝより起こり、ゝに還るのと同様、
すべての悪もまたゝより起こり、ゝに還る。
ゆえに、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。
(こと)に地上人はこの善悪の平衡(へいこう)の中にあるがゆえに、地上人たり得るのであって、
悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善はなくなるのである。
この悪を因縁(いんねん)により、また(とら)われる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。
この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄(いやさか)するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
いわゆる、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。
地上人は、霊人との和合によって神と通じる。
地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。
その平衡(へいこう)するところに力を生じ、生命する。
しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、
すべてのもののゝが与えられると見えるものである。
これを直接内流と称し、この神よりの流入するものが、
意志からする時は理解力となり、真理となる。
また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現れる。
そして、神と通じる一大歓喜として永遠に生命する。
ゆえに、永遠する生命は愛と離れ、(まこと)と離れ、
また信仰と離れてはあり得ないのである。
神そのものも神の法則、秩序に逆らうことはできない。
法則とは歓喜の法則である。
神は歓喜によって地上人を弥栄(いやさか)せんとしている。
これは地上人として生まれ出ずる生前から、また死後に至るも止まざるものである。
神は、左手にて↩の動きをなし、右手にて↪の動きをなす。
そこに地上人としては割り切れないほどの、
神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。
地上人は絶えず、善、(まこと)に導かれていると共に、また悪、(いつわり)に導かれる。
この場合、その平衡(へいこう)(やぶ)るようなことになってはならない。
その平衡(へいこう)が、神の()(むね)である。
平衡(へいこう)より大平衡(だいへいこう)に、大平衡(だいへいこう)より(ちょう)平衡(へいこう)に、
(ちょう)平衡(へいこう)より(ちょう)大平衡(だいへいこう)にと進み行くことを弥栄(いやさか)と言うのである。
左手は右手により生き動き、栄える。
左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、(まこと)なき悪、(いつわり)はなく、悪、(いつわり)なき善、(まこと)はあり得ない。
神は善・(まこと)・悪・(いつわり)であるがその新しき平衡(へいこう)が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に(はら)み、神の中に生まれ、神の中に育てられつつある。
始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄える姿がそれである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第16帖  →超訳

考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。
霊的な内奥の自分からである。
この内奥の自分は神につながっている。
ゆえに、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、
自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし(たも)うているのである。
そこに、人が地上における司宰者たる、また、たり得る本質がある。
地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、
地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。
これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、
霊界でも見、聞き、味わい、()ぎ、感じ、生活することができるのである。
しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、
物質の(ころも)にすぎないことが判明する。
肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現れとなって呼吸する。
霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。
また、心臓は、その情動の現れとなって脈打つ。
霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。
この二つの動きが、一貫せる生命の現れであって、
生前も、生存中も、死後も、また同様である。
肉体の呼吸と脈拍とは、新しき霊体の呼吸と脈拍に相通じ、
死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。
かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。
為に死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。
ゆえに、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。
しかして、霊界においては、先に述べたごとき状態であるがゆえに、
各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、
これに対応する霊的の事物と変じて現れるものである。
この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。
人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、
すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。
そして、それはまた完全なる人間の形であり、
人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、
さらに大宇宙そのものの形である。
大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、
また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、
常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。
大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。
変化、進展、弥栄(いやさか)せぬものは歓喜ではない。
歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。
ゆえに、歓喜は肺臓と心臓とを有する。
この二つは、あらゆるものに共通であって、
植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。
人間の場合は、そのもっとも高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通じる
最奥の組織を有する。
これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、
肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。
しかして、この二者は一体にして同時に、
同位のものとなっていることを知らねばならない。
それは心臓としても脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。
表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現れである。
そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、
すなわち、大神より直流し来るものを感得し、
それを行為し得る独特のものを有しているのである。
人間が一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、
霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、
それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。
第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、
第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。
七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、
三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第17帖  →超訳

地獄はないのであるが、地獄的現れは、
生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。
しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。
大神は大歓喜であり、人群万類の生み(ぬし)であり、
大神の中に、すべてのものが生長しているためである。
死後、ひとまず置かれるところは、霊、現の中間の世界であり、
そこでは中間物としての中間体を持っている。
意志のみでは力を生まない。
理解のみでも進展しない。
意思と、理解との結合によって弥栄(いやさか)する。
このことは、中間の状態、すなわち死後の最初の世界において、何人もはっきりと知り得る。
しかし、生存時において、すでに過去を清算している霊人は、
この中間世界にとどまる必要はなく、
その結果に対応した状態の霊界に、ただちに入るのである。
清算されていない者は、清算が終わるまで、
この中間世界にとどまって努力し、精進、教育される。
その期間は五十日前後と見てよいが、
もっとも長い者は十五、六年から二十年位を要する。
この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、光明に満たされている。
ゆえに、何人も、この世界へ進みやすいのである。
また、地獄的な世界は暗黒に満たされているゆえに、
この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、
極めて進みにくいのである。
天国には昇りやすく、地獄には堕ち難いのが実状であり、神の御意志である。
しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進み行くものもあるのであって、
その者たちには、それがふさわしい世界なのである。
そこに、はかり知れないほどの大きく広い、神の世界がひらかれている。
この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、
本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである。
以上のごとく、中間世界からは、無数の道が無数の世界に通じており、
生前から生後を通じて、思想し、行為したことの総決算の結果に現れた状態によって、
それぞれの世界に通ずる道が自らにして目前にひらかれて来るのである。
否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、
他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。
ゆえに、迷うことなく、自分の道を自分で進み、
その与えられたもっともふさわしい世界に落ち着くのである。
他から見て、それが苦の世界、不純な世界に見えようとも、
当の本人には楽天地なのである。
なぜならば、一の世界に住む者には、二の世界は苦の世界となり、
二の世界に住む者には、一の世界はまた苦の世界と感覚するからであって、
いずれも自ら求める歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。
また一の世界における善は、二の世界では善ではなく、
二の世界の(まこと)が、一の世界においては(まこと)でない場合も生じてくる。
しかし、そのすべての世界を通じて、さらに高きゝに向かって進むことが、
彼らの善となるのである。
ゝは中心であり、大歓喜であり、神である。
死後の世界に入る時に、人々はまず自分の中の物質を脱ぎ捨てる。
生存時においては物質的な自分、
すなわち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、
そのものが生命し、かつ自分自身であるかのごとくに感じるのであるが、
それは自分自身の本体ではなく、外皮にすぎない。
生長し、考慮し、行為するものの本体は、
自分自身の奥深くに秘められた自分、すなわち霊の自分である。
霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。
ゆえに、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。
しかし、肉体を捨てて霊界に入ったからといって、物質が不要となり、
物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。
死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係に置かれる。
なぜならば、物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、
霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。
生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界のいずれもが不離の関係に置かれて、
互いに呼吸し合っている。
例えば、地上人は生前世界の気を受け、また死後の世界に通じている。
現実世界で活動しているが、半面においては生前の世界とも、
また死後の世界とも深い関連をもっており、
それらの世界においても、同時に活動しているのである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第18帖  →超訳

神から出る真・善・美・愛の(はたらき)に奉仕するのが霊人たちの生命であり、
仕事であり、栄光であり、歓喜である。
ゆえに、霊界における霊人たちの職業は、
その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。
為にその(はたらき)は無数であり、かつ千変万化する。
歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。
ゆえに、自分自身の()が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。
霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多種であるが、
より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、
喜びであることが知られる。
そして、そのいずれもが神の秩序、
すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、
全般的には一つの大きな神の働きをなしているのである。
ゆえに、いずれの面の(はたらき)をなすとも、自己というものはなく、
弥栄(いやさか)あるのみ、神あるのみとなる。
なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、
義務のみを感じているということである。
すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。
為に、命令的なものはない。
ただ、ひたすら奉仕があるのみである。
その奉仕は地上人であった時の職業と相通じるものがある。
なぜならば霊と物とは対応しているからである。
生前は生後であり、死後はまた生前であって、
春秋日月の(はたらき)を繰り返しつつ弥栄(いやさか)えている。
従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。
陽人と陰人とである。
陽人は陰人のために存在し、陰人は陽人のために存在する。
太陽は、太陰により弥栄(いやさか)え、太陰は太陽によって生命し歓喜するのである。
この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。
ゆえに、二は一となり、三を生み出すのである。
これを愛と信の結合、または結婚とも称されている。
三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することである。
新しき生命とは新しき歓喜である。
歓喜は、物質的形体はないが、
地上世界では物質の中心をなし、物質として現れるものである。
霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力する。
秋は陰であり、月と光り、かつ力する。
この春秋の動きを、また、歓喜と呼ぶのである。
春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも言い得る。
また、悪があればこそ生長し、弥栄(いやさか)し、かつ救われるのである。
ゆえに神は、悪の中にも、善の中にも、
また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し(たま)うものである。

記:1946年2月? 日付なし

 

地震の巻〜第19帖  →超訳

天国の政治は、歓喜の政治である。ゆえに、戒律はない。
戒律の存在するところは、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。
天国の政治は、愛の政治である。
政治する政治ではない。
より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。
ゆえに、与える政治と現れる。
天国は限りなき団体によって形成されている。
そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。
統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現れる。
三人が元となり、その中心の一人は、ゝによって現され、他の二人は、◯によって現される。
◯は、左右上下 二つの動きのを為すところの立体からなっている。
統治者の心奥のゝは、さらに高度にして、さらに内奥に位するゝの中のゝによって統一され、
統治され、立体をなしている。
天国ではこのゝを、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。
スの神は、アの神と現れ(たま)い、オとウとひらき(たま)い、
続いて、エとイと動き現れ(たま)うのである。
これが総体の統治神である。三神であり、二神である。
ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。
これら天国の組織は、人体の組織と対応し、
天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。
オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。
エ・イなる(まこと)は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。
これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。
よりよく奉仕するのみである。
奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し、
善と、(まこと)との浄化と共に、悪と(いつわり)の調和をなし、
これらのすべてを神の力と生かし、さらに高度な大歓喜に至らんかと努力することである。
また統治者自身は、自分たちを他の者より大なる者とはせず、
他の善と(まこと)とを先とし、その歓喜をまずよろこび、(おのれ)はその中にとけ入る。
ゆえにこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。
指令することは、戒律をつくることであり、
戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。
天国における政治の基本は、以上のごとくであるが、
さらに各家庭においては、同一の形体をもつ政治が行われている。
一家には一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。
またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。
その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄(いやさか)である。
すなわち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。
天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。
歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。
けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。
礼拝生活である。
すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。
与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。
ゆえに、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。
しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致してる。
地上人的礼拝は、形式の世界たる地上においては、一つの生き方であるが、
天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
無限と永遠は、常に弥栄(いやさか)えるがゆえに生じるものであり、
その弥栄(いやさか)が神の(はたらき)である。
森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄(いやさか)を見て、
この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、
無限と、永遠が神の(はたらき)なることを知らねばならぬ。
天国の政治は、光の政治である。
天国にも地上のごとく太陽があり、その太陽より、光と、熱を発しているが、
天国の太陽は、一つではなく二つとして現れている。
一は月球のごとき現れ方である。
一は火の現れ、火の政治であり、一は水の現れ、水の政治である。
愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、
智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。
月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動のいかんによるのであって、
神は常に光と熱として接し(たま)うのである。
またそれは、大いなる歓喜として現れ(たま)う。
光と熱とは、太陽そのものではない。
太陽は、火と現れ、月は、水と現れるが、その内奥はいずれも大歓喜である。
光と熱とは、そこより出ずる一つの現れに過ぎないことを知らねばならぬ。
このことをよく理解するがゆえに、天国の政治は、常に光の中にあり、
また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。
天国の太陽よりは、(まこと)と愛が常に流れ出ているが、
その(まこと)と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、
現れ出たものが(まこと)と見え、愛と感じられるのみである。
太陽の内奥は大歓喜が存在する。
ゆえに高度の天人の場合は、愛も(まこと)もなく、
はるかにそれらを超越した歓喜のゝが感じられるのみである。
この歓喜のゝが、(まこと)・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。
歓喜は、その受け入れる天人、天使、霊人、地上人たちの持つ内質のいかんによって千変万化し、
また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。

記:1946年2月? 日付なし