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    白銀の巻(全文)

 

白銀の巻〜第1帖  →超訳

「天地のことわり書き知らすぞ」
この巻しろかねの巻。
天国じゃ、地獄じゃ、浄土じゃ、穢土(えど)じゃと申しているが、
そんな分けへだてはないのであるぞ。
時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあるのじゃが、
時節到来したので、まことの天地のことわりを書き知らすぞ。
三千の世界の中の一つがそなたたちの世界であるぞ。
この世もまた三千に分かれ、更に五千に分かれているぞ。
このほう五千の山にまつれと申してあろう。
今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。
人民のタネによっては七つしかわからんのであるぞ。
日の光を七つと思うているが、
八であり、九であり、十であるぞ。
人民では六つか七つにしか分けられまいが、
岩戸がひらけると更に九、十となるぞ。
「隠してある一厘の仕組み、九十の経綸(しくみ)、成就した(あかつき)には何も()もわかる」
と申してあろうが。
八つの世界とは、
 △⌒、△、▽、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。
八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、
と考えてよいのじゃ。
キとは気の気であるぞ。
その他に逆の力があるぞ。
九と十であるぞ。
その上にまた霊の霊の個から始まっているのであるが、
それはムの世界、無限の世界と心得よ。
霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、
皆ただちにはわからないのであるぞ。
わからんことはわからんと、
わからねばならんと申してあろうがな。
天、息吹(いぶ)けば、地、息吹(いぶ)くと申してあろう。
このことよくわきまえよ。
地の規則、天の規則となることあると申して知らせてあろう。
この大切こと忘れるでないぞ。
おもいの世界が天ぞ。
にくの世界が地ぞ。
おもいは肉体と一つぞ。
二つぞ。三つぞ。
おもい起こって肉体動くぞ。
肉体動いておもい動くこともあるぞ。
生まれ(あか)()の心になって聞いて下されよ。
何も()も、ハッキリうつるぞ。
陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考えているなれど、
タカミムスビとカミムスビと考えているなれど、
別のミナカヌシ、現れるぞ。
    ゝ◯、、⊕、+◯、+、+、卍、卐、+、+、よく見て下されよ。
一であり、二であり、三であろうがな。
三が道と申してあろう。
陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。
ゝなくてはならん。ゝにもかくれたゝと現れたゝとがあるぞ。
このことまず心得て下されよ。
そなたたちは父と母と二人から生まれ出たのか。
そうではあるまいがな。
三人から生まれ出ていることわかるであろうがな。
どの世界にも人が住んでいるのであるぞ。
   ゝ◯の中にゝ◯があり、その中にまたゝ◯があり、
限りないのだと知らせてあろうが。
そなたたちの中にまた人がいて限りないのじゃ。
このほう人民の中にいると知らせてあろうがな。
そなたたちも八人、十人の人によって生きているのぞ。
また十二人でもあるぞ。
守護神と申すのは心のそなたたちのことであるが、
段々変わるのであるぞ。
自分と自分と和合せよと申すのは、
八人十人のそなたたちが和合することぞ。
それを改心と申すのだぞ。
和合した姿を善と申すのじゃ。
今までの宗教は肉体を悪と申し、
心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、
それが間違いであること合点か。
一切がよいのじゃということ合点か。
地獄ないこと合点か。
悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。
合点じゃなぁ。
各々の世界の人がその世界の神であるぞ。
この世ではそなたたちが神であるぞ。
あの世では、そなたたちの心を肉体としての人がいるのであるぞ。
それがカミと申しているものぞ。
あの世の人をこの世から見ると神であるが、
その上から見ると人であるぞ。
あの世の上の世では神の心を肉体として神がいますのであって限りないのであるぞ。
裏から申せば、神様の神様は人間様じゃ。
心の守護神は肉体じゃと申してあろうがな。
肉体が心を守っているのであるが、
じゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。
どこまでも下に従うのじゃ。
順乱すと悪となるぞ。
生まれ(あか)()踏み越え、生まれ(あか)()になって聞いて下されよ。
そなたたちの本尊は八枚十枚の衣着ているのじゃ。
死ということは、その衣、上から脱ぐことじゃ。
ぬぐと中から出て来て また八枚十枚の衣つけるようになっているのじゃ。
わかるように申しているのじゃぞ。
取り違いせんようにせよ。
天から気が地に降って、ものが生命し、
その地の生命の気がまた天に反影するのであるが、
まだまだ地には凸凹があるから
気が天にかえらずに横にそれることあるぞ。
その横の気の世界を幽界と申すのじゃ。
幽界は地で曲げられた気の作り出したところじゃ。
地獄でないぞ。

記:1949年12月14日

 

白銀の巻〜第2帖  →超訳

わかるように申すならば、
宇宙はゝ真と愛との現れであるぞ。
愛と真ではない。
ゝ、愛、真、善、智であるが、
愛真でもなく、善智でもないぞ。
愛と真が善と智と現れ、喜びとなってはたらき、
ゝが加わって弥栄(いやさか)えた生命(いのち)であるぞ。
愛のみというものないぞ。
真のみというものもないぞ。
愛と現れ真と現れるのであるぞ。
人間には現れたものだけよりわからんのであるが、
ことわけて申すならば愛には真かくれ、
真には愛かくれ、その奥にゝがあるのじゃ。
人間は親を父と母とに区別しているが、
母と現れる時は父その中におり、
父と現れる時はその中に母いるのであるぞ。
いずれも親であるぞ。
父となり母となり現れるのであるぞ。
愛と真、善と智と区別して説かしておいたが、それは今までのこと、
いつまでもそんなところでまごまごさしてはおけんぞ。
ゝが分からねばならん。
ゝのゝが分からねばならん。
男の魂は女、女の魂は男と申してあろう。
人間の目に愛と映るものは外の愛、
真と映るものは外の真ぞ。
中から申せば外は御役の悪であるぞ。
今が過去で、今が未来ぞ。
時間にふみ迷うなよ。
空間に心ふみ迷うでないぞ。
皮一枚ぬいで心でよく考えなされ。
いつも日が出ているでないか。
月輝いているでないか。
力そのものに、力はないのであるぞ。
霊と肉の結びのみで力現れるのでないぞ。
プラスとマイナスと合わせて組みて力出ると思うているのであろうが、
一歩ふみ出さねばならんぞ。
プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ。
(ちから)出ないのだ。
ゝの力が加わってそこにヨロコビ出て、
(みち)となり、なり、なりて真実と現れるのぞ。
弥栄(いやさか)が真実ぞ。神ぞ。神の心ぞ。
竜神と申しているが竜神にも二通りあるぞ。
地からの竜神は進化して行くのであるぞ。
進化を(うそ)だと思うは神様迷信ぞ。
一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。
この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。
人間は土でつくって、神の気入れてつくったのだと申してあろうがな。
イワトしめとイワトひらきの二つの御用のミタマあると申してあろうが。
ミタマの因縁恐ろしいぞ。
愛と智は呼吸して喜びとなるのであるぞ。
よろこびは形をとる。
形なく順序なきもの◯であるぞ。
善と真のはたらきを完全にするには、
善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ。
とけ合わせ、結んでヨロコビと現れるのであるが、
区別することによって結ばれるのであるぞ。
ゝしなければならん。
すればするほど力強くとけ合うのであるぞ。
大き喜びとなるのであるぞ。
このこと日月の民にはわかるであろうな。
道は三つぞ。合点じゃなあ。
小の中に大あるぞ。
無の中に有有(ウあ)るぞ
もの益々小さければ、益々清ければ、
益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。
神はそなたの中にあるが外にもあると申してあろうがな。
(ウム)よく見て下されよ。
愛はそのまま愛でないぞ。
真はそのまま真でないぞ。
善はナマでは善でないぞ。
智はナマでは智でないぞ。
ゝ入れて、結んで解けてヨロコビとなるのだ。
ヨロコビ生命(いのち)ぞ。
宇宙のすべて生命(いのち)であるぞ

記:1950年1月1日

 

白銀の巻〜第3帖  →超訳

  ゝ◯の中のゝの中のゝ◯は一であり、二とひらき、三と生命(いのち)するぞ。
(みち)()()で、()であると申してあろう。
()()()も同じであり、違って栄えるのだ。
一二三(ヒフミ)であるぞ。
このこと教えられてもわかるまい。
ハラでわかる大切こと、ハラ大切ぞ。
かたまってはならん。
ゝに(とら)われるとゝはわからん。
地の定規で(はか)ってはならん。
いかなる天国も自分でつくるのぞ。
そろばん捨てよと申してあろうがな。
よろこびは(みち)ぞ。数ぞ。言ぞ。真理ぞ。愛善ぞ。
生命(いのち)のイキということわかるであろう。
天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。
天国は霊人のみの住む所でないぞ。
そなたたちも今住んでいるでないか。
霊人も現界に住んでいるでないか。
現界をはなれて天国のみの天国はないのであるぞ。
ゆえにこそ、現界で天国を生み出し、
天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのじゃ。
アメツチと申してあろう。
この道理よくわきまえよ。
善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。
まことの天国には喜びのみが生きているのであるぞ。
喜びの中にとけ入って、
喜びのものとなっているのであるぞ。
喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って、(うれ)(うれ)しとなるのぞ。
いらんものは形が変わって来る。
新しき生命(いのち) 湧き出るのであるぞ。
善が悪と、真が偽と変わった時は死となるぞ。
その死は新しき別の生命(いのち)と現れて、
新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ。
善も悪もないのだと申してあろう。
善悪はあるが無いのだと申してあることわかりたか。
自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄(いやさか)えるぞ。
死んだものは新しき形をとって生命(いのち)するのであるぞ。
弥栄(いやさか)の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。
愛だと申して愛に(とら)われてござるぞ。
真だと申して真に(とら)われてござるぞ。
喜びに生きよ。
宗教に(とら)われてはならん。
道に(とら)われてはならん。
喜びに生きて、喜びに(とら)われるなよ。
お互いに喜びの湧き出ずることでなければ真の愛でないぞ。
(みち)でないぞ。
天国に(みち)あると申すが、
今の人間の申したり、考えたりするような道でないぞ。
道なき(みち)と申してあろうが。
喜びの(みち)であるぞ。
(うれ)(うれ)しの(みち)、早う合点せよ。
生命(いのち)栄えるもの皆喜びであるぞ。
信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。
生も死もなくなるのだ。
時間や空間を入れるから、知(血)、通わなくなるのぞ。

記:1950年1月2日

 

白銀の巻〜第4帖  →超訳

凸凹(でこぼこ)あるから力あらわれるのぞ。
凸凹(でこぼこ)あるため、善のみでも呼吸し、また(シン)のみでも呼吸(イキ)するのであるぞ。
偽善者も真を語り、真を伝え得るのであるぞ。
愛を言い得るのであるぞ。
幽界と申すのは凸凹(でこぼこ)のうつしの国と申してあろうがな。
地獄ではないのだ。
仙人は幽界に属しているのだと聞かしてあろうが。
取り違いしてござるぞ。
愛は真と和して愛と生き、真は愛と和し、
愛によって真の力現れるなれど、
愛のみでも愛であるぞ。
真のみでも真であるぞ。
ただはたらき無いのだ。
(はたらき)ないもの力ないぞ。喜びないぞ。
喜びないもの亡びるのだ。
ゝ入らねば悪となるぞ。
(はたらき)なきもの罪ぞ。(けが)れぞ。
善と悪と二道かけてならんぞ。
(みち)は一本と申してあろう。
悪は悪として御役あるぞ。
悪と(いつわ)りの中に悪の喜びあるぞ。
善と悪の二道の中には、二道かけては喜びないぞ。
喜びないもの亡びるのだ。
御役の悪とは悪と(いつわ)りの悪であるぞ。
悪と善との二道かけての悪でないぞ。心せよ。
悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。
善に向かって働いても、善はビクともせんのじゃ。
ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからぞ。
合わせ鏡と申してあろうが。
悪の気断ちて下されと申してあろう。
心の鏡の凸凹(でこぼこ)なくなれば悪映らないのだ。
悪は無きものぞ。
無きとは力無きことぞ。
悪あればこそ向上するのであるぞ。
悔い改め得て弥栄(いやさか)するのであるぞ。
人間の(はたらき)あるのだぞ。
ゝを忘れてはならん。

記:1950年1月2日

 

白銀の巻〜第5帖  →超訳

人間に自由はないのであるぞ。
真の自由は、大神にのみあるものぞ。
大神の自由の一部が御喜びと共に流れ入り、
神に流れ入った自由は、
また神の喜びとなって人間に流れ入るから、
人間自身は自由を持っていると信じるのであるぞ。
本質的には自由はないのであるぞ。
人間には自由の影があり、反影あるのだ。
それを人間は自由と心得ているのであるぞ。
自由の反影あるから、悪にも善にも、(よう)にも(いん)にも為し得るのであるぞ。
また進歩、弥栄(いやさか)するのであるぞ。
悪自由を、人間は自由と心得ているが、
それは自由ではなく、自分自身を首くくるものぞ。
善自由こそ真の自由であるぞ。
自由は神から流れ出ると申してあろう。
他の世界と交流するは、
他の世界に住む人間を通じてするのであるぞ。
世界とは人間のことでもあるぞ。
人間が世界であるぞ。
よく心得なされよ。
+(陽)と−(陰)と◯とゝであるぞ。
+の陰には−があり、−の陰には+がある。
その和の状態が◯でありゝ(いのち)するのであるぞ。
+は+のみでは力ないぞ。
−は−だけでは力ないぞ。
+と−とだけでも動きないぞ。
生命(いのち)の喜びないのであるぞ。
よく心得よ。
◯があって+−があり、+−がありゝがあって和があるのであるぞ。
ここの道理よく得心、合点せよ。
+は人間にとって直接の喜びでない。
 +◯が直々(じきじき)の喜びぞ。
  −も直接ではなく、−◯|◯が直接の喜びであり、
その二つが和しゝして(うれ)(うれ)しと弥栄(いやさか)えるのであるぞ。
天地の中間を中界と申すぞ。
天の息吹(いぶ)きと地の息吹(いぶ)きの中間ぞ。
天国へ行くも、行かんのも まず落ちつく、
死後の始めての世界であるぞ。

記:1950年1月2日

 

白銀の巻〜第6帖  →超訳

  元の元の㋰からム⌒、ウ⌒の中界を経て、
ウの現界に至ることごとくの世界が皆人間に関係あるのであるから、
肉体はウであるが、
魂は㋰に通じているのであるから、
㋰はヨロコビであるから、
喜びが人間の本体であるから、
神界といい、現界といい、一本の国であるから、
人間からすれば、人間が土台であるから、神の(いしずえ)であるから、
神しずまれば神人となるのであるから、
神界、中界、現界つらぬきておらねば、
マコトの和合しておらねば、
マコトの喜びでないから、
マコトの喜びが大神であるから、
大神の働きは人間によるものであるから、
心せねばならんぞ。
ゝせねばならんぞ。
天使といい、天人と申すも、
みなそれぞれの国の人間であるから、喜びの人間であるから、
この道理わかりたら、
地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、
持ちつ持たれつであるから、三千世界であるから、
地の上に(わざわい)あると、天の国にも(わざわ)うのであるから、
天の国の生活は地の上に根をつけているのであるから、
遠くにあるのでないぞ。
同じ所にあるのであるぞ。
幽界と申すのは道を外れた国のことだと知らせてあろうが、
地獄無いと申してあろうがな。
このこと間違わんように、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。
言葉からモノ生むのぞ。
ただモノが違うのみであるから、
人間の心が神に通じるときは喜びとなり、
幽人に通じるときは悲しみとなるのであるぞ。
通じる心あるから心に自由あるのであるぞ。
弥栄(いやさか)あるのであるぞ。
この道理よくわきまえて下されよ。
天人に結婚もあれば仕事もあるぞ。
死もまたあるのであるぞ。
死とは住む段階の違う場合に起こる現象ぞ。
死とは生きることぞ。
人間は皆、神かかっているのであるぞ。
神かかっていないもの一人もおらんのじゃ。
神かからんものは呼吸せんのじゃ。
このことわかりておろうがな。
霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ。
心を肉体として住んでいるのじゃ。
その中にまた住んでいるのじゃ。
ひらたく説いて聞かしているのじゃ。
霊人と和合しているから、神かかりであるからこそ、
三千世界に働き栄えるのじゃぞ。
神界のこともわかる道理じゃ。
幽界のこともわかる道理じゃ。
人間の言う神かかりとは幽界の神かかりじゃ。
ろくなことないのじゃ。
神かかりにも、神かかりとわからん神かかり結構じゃなぁ。
まことじゃなぁと知らせてあるのにまだわからんのか。

記:1950年5月8日

 

白銀の巻〜第7帖  →超訳

天国がうつって地ができているのじゃから、
霊の国は更に立派、微妙ぞ。
天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違いあるだけじゃ。
その時の状態によって変化するが、
すべては神が与えたのじゃ、
現界同様、与えられているのじゃと知らせてあろうがな。
時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。
同じ状態にあれば同じ(ところ)に住み、
変化すれば別の(ところ)に住むのであるぞ。
見ようと思えば、念の中に出て来て、
見ること、語ることできるのじゃ。
見まいとすれば見えんのじゃ。
自分で見、自分で語るのじゃぞ。
時、所、位、すべてが想念の中、
想念のままに現れて来るのであるぞ。
わかるように申すならば、
時間も空間も映像であって、情態が変わるのみのことであるぞ。
情態のもと、本質は限りないから、
無限であるから、自由であるから、
霊界は無限、絶対、自由自在であるぞ。
現界では、時間に順に得たものでも、
心の中では時間に関係なく、距離に関係なく、
一所に並べられるであろうがな。
心の世界で、時間、空間のない道理これでよくわかるであろうがな。

記:1950年5月8日