春の巻(全文)
新しき御代の始めのタツの年、スメ大神の生まれ出で給いぬ。
皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからじゃと申してあろうが。
始めの始めと始めが違うぞ。
皆始めヒからじゃ。
赤児になって出直せよ。
ハラで見、ハラで聞き、ハラで話せよ。
ハラには間違いないのじゃ。
祈りばかりでは祈り地獄、神から光頂けるように理つけねばならん。
水は低きに流れるぞ。
喜びに叶う心、喜びの行あるところ喜び来るのじゃ。
喜びにも正しきと曲がれるとあるぞ。
無限段階あるのじゃ。
心して迷わんように致してくれよ。
ここは光の理伝え、行うところ、教えでないと申してあろう。
教えは教えにすぎん。
理でなくては、今度はならんのじゃ。
天の理、地の理もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。
教えは局部的、時、所で違うのじゃ。
迷信となるぞ。
ハラが神であるぞ。
記:1952年1月27日(旧元旦)
カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、
実践する人のことであるぞ。
神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのじゃ。
自分のためばかりで祈れば迷信、我よしの下の下ぞ。
誰でも霊かかりであるぞ。
石でも木でも土でも霊かかりぞ。
これは一般かみかかりであるぞ。
特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのじゃ。
九分通りしくじるのじゃ。
太陽の光集めること知っているであろうが。
神の理をより良く、より高く集める理がマコトの信仰であるぞ。
理であるぞ。
世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのじゃ。
悪かみかかりに迷うでないぞ。
審神者せよ。
外はウソが多いぞ。
内の声ウソないぞ。
記:1952年1月27日(旧元旦)
掛巻も、畏き極み、九二つ千(国土)の、清の中なる大清み、
清みし中の、清らなる、清き真中の、よろこびの、その真中なる、御光の、
そが御力ぞ、綾によし、十九立(常立)まし、大九二(大国)の十九立(常立)大神、
十四九百ヌ(豊雲野)、十四(豊)の大神、
瀬織津のヒメの大神、速秋の、秋津ヒメ神、
伊吹戸の、主の大神、速々の、佐須良ヒメ神、
これやこの、太日月+◯、皇神の御前畏み、謹みて、
うなね突き貫き、白さまく、ことの真言を。
伊行く水、流れ流れて、月速み、いつのほどにや、この年の、冬も呉竹、
一と夜の、梓の弓の、今とはや、明けなむ春の、立ちそめし、
真玉新玉、よろこびの、神の稜威に、つらつらや、
思い浮かべば、天地の、始めの時に、大御祖神、
九二十九立(国常立)の、大神伊、三千年、またも三千年の、もまた三千年、
浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、その荒々し、渡津海の、
塩の八百路の、八汐路の、汐の八穂合い、洗われし、
弧島の中の、籠らいし、籠りたまいて、畏くも、この世かまいし、大神の、
時めぐり来て、一筋の、光の御代と、出でませし、めでたき日にぞ、今日の日は、
御前畏み、御饌御酒を、ささげまつりて、海山野、
種々珍の、みつぎもの、供えまつりて、かごちもの、
ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕えん、まつらまく。
生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しける、罪やけがれの、あらむをば、
祓戸にます、祓戸の、大神達と相共に、ことはかりましし、
神直日、大直日にぞ、見伊直し、聞き直しまし、祓いまし、
清めたまいて、清清し、清の御民と、きこし召し、
相諾いて、玉えかし、玉はれかしと、多米津もの、百取、さらに、百取の、
机の代に、足らはして、横山のごとく、波のごとく、伊盛、栄ゆる、大神の、
神の御前に、まつらまく、こいのみまつる、畏みて、まつらく白す、弥つぎつぎに。
新玉の 玉の御年の 明けそめて 罪もけがれも 今はあらじな
節分の祝詞であるぞ。
太のりとせよ。
いよいよの年立ち初めたぞ。
うれしうれしの御代来るぞ。
記:1952年1月30日
|◯がよろこびであるぞ。
─◯もよろこびであるぞ。
よろこびにも三つあるぞ。
|◯は表、─◯は裏、表裏合わせて+◯ぞ。
+◯は神であるぞ。
神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。
+◯のもとがゝ◯であるぞ。
キであるぞ。
元の元の太元の神であるぞ。
△(ム)であるぞ。
△(ム)から▽(ウ)生まれ、▽(ウ)から△(ム)生まれるぞ。
同じ名の神二つあると申してあろうが。
表の喜びがゝ、愛、真、善、美となり現れ、
裏の喜びからは、◯、憎、偽、悪、醜が現れるのじゃ。
喜びが神じゃと申して裏の喜びではならんぞ。
今の人民の喜びと申すには裏の喜びであるぞ。
悲しみを喜びと取り違えているぞ。
この巻、春の巻。
こまかに説いてわかりやすく説いて聞かすぞ。
分ければそれだけ小さくなるなれど。
記:1952年2月3日
第4帖〜第23帖/第24帖〜第32帖の順番逆転?
人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。
神も人民も、世界も、宇宙も、すべていつまでも未完成ぞ。
神様でも大神様はわからんのであるぞ。
ただ、喜びに向かってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。
正しき喜びを先ず見極めよ。
見極めてひたすらに進めばよいのじゃ。
食物を食べるのも喜びであるぞ。
正しき食物 正しく食べよ。
更に喜び増えて弥栄えるのじゃ。
自分の喜びを進め進めて天国へ入ることできるのじゃ。
悪い食物 悪く食べるから悪くなるのじゃ。
目に見える食物ばかりでないぞ。
何もかも同様ぞ。
人民は喜びの子と申してあろう。
罪の子でないぞ。
嬉し嬉しの道あるのに、なぜ歩まんのじゃ。
記:1952年2月3日
喜びがゝ、真、善、美、愛と現れ、それがまた、喜びとなり、
また、ゝ、真、善、美、愛となり、また現れ、限りないのじゃ。
喜びの本体はあの世、現れはこの世、あの世とこの世合わせて真実の世となるのぞ。
あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。
あの世とこの世と合わせ鏡。
神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をゝ◯として、心として生命しているのじゃ。
神人と申してあろうがな。
この十理よくわきまえよ。
この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。
くどいようなれどこのこと肚の中に、得心なされよ。
これが得心できねば どんなによいことしても、まこと申しても なにもならん、ウタカタじゃぞ。
時節来たのじゃから、今までのように一方だけではならんぞよ。
記:1952年2月3日
こと分けて書きおくから、迷わんように。
人民の理歩んでくれよ。
何もかも嬉し嬉しとなる仕組み、
人民に禍ないのじゃ。
不足ないのじゃ。
いつも楽し楽しの歌で暮らせる仕組みじゃぞ。
と申しても、心でわかっても、今の人民にはわかるまいから、
更にこと分けて、こまかに説いて聞かすぞ。
理しるべをつくりおくぞ。
これがよろこびの理じゃ。
人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。
人民と申す者は神の喜びの全き現れであるぞ。
いくらけがれても元の神の根元神のキをうけているぞ。
それを育てることじゃ。
導くことじゃ。
死なんとする人助けるのもその一つじゃ。
宿った子殺すことは、人民殺すことじゃ。
今の人民 九分九厘は死んでいるぞ。
救え、救え、救え。
おかげは取り徳じゃ。
生かせよ。生かせよ。
生かす理は神示読むことじゃ。
記:1952年2月3日
人民をほめること よいことじゃ。
ほめて、その非を悟らせよ。
罪許すことじゃ。
もの生かすことじゃ。
生かして使うことじゃ。
神示 ひろめることじゃ。
やって見なされ。
必ず嬉し嬉しとなるぞ。
栄えるぞ。
嬉しくなかったら神はこの世におらんぞよ。
神示は一本道じゃ。
始めからの神示読んで、よく読んで見なされ。
何もかもハッキリしてくるぞ。
神示うつして下されよ。
世界にうつすことよろこびぞ。
地に天国うつすことぞ。
難しいことないぞ。
今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、それでよいのじゃ。
裏は裏として生きるのじゃぞ。
金は使うもの。
使われるものでないこと よくわかっておろうがな。
御苦労のことやめなされよ。
記:1952年2月3日
人民には分別与えてあるから反省できるのであるぞ。
反省あるから進展するのであるぞ。
放っておいても、要らんものは無くなり、要るものは栄えるのであるが、
人民の努力によっては、より良くなるのじゃ。
省みねば生まれた時より悪くなると申してあろうが。
慾、浄化して喜びとせよ。
喜び何からでも生まれるぞ。
広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。
物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与えられるのじゃ。
無限の喜び得ることできるのじゃ。
無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。
真理を知ることが、無限を得ること。
まことの神をつかむことぞ。
よいもの作るには大き手数かかるのじゃ。
懐手でいてはできん。
手出せ、足出せよ。
記:1952年2月3日
一切のものは(うず)であるぞ。
同じこと繰り返しているように、人民には見えるであろうなれど、
一段ずつ進んでいるのであるぞ。
木でも草でも同様ぞ。
前の春と今年の春とは、同じであって違っておろうがな。
行き詰まりがありがたいのじゃ。
進んでいるからこそ、行き当たり行き詰まるのじゃ。
省みる時与えられるのじゃ。
悟りの時与えられるのじゃ。
ものは、離すからこそ掴めるのじゃ。
固く握って戸閉めていてはならんのう。
扉開けておけと申してあろうが。
着物脱いで裸体となることつらいであろうなれど、
脱がねば新しい着物は着られんぞ。
裸になってブツカレよ。
神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。
重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。
記:1952年2月3日
内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ。
先祖疎かにするでないぞ。
先祖まつることは自分まつることぞ。
外の自分と申しても肉体ばかりでないぞ。
肉体霊も外の自分であるぞ。
信じ切るからこそ飛躍するのじゃぞ。
不信に進歩弥栄ないぞ。
任せ切るからこそ神となるのじゃ。
神に通じるのじゃ。
他力で自力であるぞ。
真剣なければ百年たっても同じ所ウヨウヨじゃ。
一歩も進まん。
進まんことは遅れていることぞ。
真剣なれば失敗しても良いと申してあろうが。
省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。
いい加減が一旦成功しても土台ないからウタカタじゃ。
下座の行、大切。
記:1952年2月3日
無くて七癖、七七 四十九癖、悪い癖 直して下されよ。
天国へ行く鍵ぞ。
直せば直しただけ外へ響くものが、変わって来るぞ。
良くなって来るぞ。
変わって来れば、外から来るもの、自分に来るもの、変わって来るぞ。
良くなって来るぞ。
幸となるぞ。
喜び満ち満つぞ。
神満ち満ちて天国じゃ。
一升枡持って来て一斗入れよと人民申しているが、
神は一斗も二斗も入れてやりたいなれど、一升枡には一升しか入らん。
大き枡持って来い。
頂くには頂くだけの資格いるぞ。
一歩ずつ進め。
一歩ずつ絶えず進めよ。
それより他に道はないのじゃ。
記:1952年2月3日
自分は良いが、世の中が悪いのじゃと申しているが、その自分省みよ。
自分が神の理にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。
輝いているぞ。
自分に振りかかって来る一切のものは最善のものと思え。
いかなる悪いことも それは最善のものであるぞ。
この道理よくわきまえて下されよ。
真の神を理解すれば、一切の幸福 得られるのじゃ。
世を呪うことは自分を呪うこと。
世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。
このこと悟れば一切はそこからひらけ来るぞ。
十のもの受けるには十の努力。
記:1952年2月3日
どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。
だから生きているのじゃ。
そのはたらき御用忘れるから苦しむ。
行き詰まる。
御用忘れるから亡びるのじゃ。
個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。
御用大切、御用結構。
日本が変わって世界となったのじゃ。
自分のためばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。
悪の祈りには悪の神。
善の祈りには善の神。
始めの間は中々わからんものじゃ。
神様のなされるマネから始めて下されよ。
記:1952年2月3日
思うようにならんのは、天地の弥栄、育成化育にあずかって働いていないからぞ。
今の世界の行き詰まりは、世界が世界の御用をしてないからじゃ。
神示読めよ。
秘文 世界にうつせよ。
早ううつせよ。
人間の智のみでは世界はよくならん。
裏側だけ清めても総体は清まらん。
神に目覚めねばならん。
神にも内のものと外のものとがある。
愛と申せば何でもよいと思うていてはならん。
愛の悪もあるぞ。
すべてこの通りじゃ。
上の、より高いところから来るから奇跡と見え、偶然と見えるのじゃ。
神からの現れであるから、その手順がわからんから偶然と見えるのじゃぞ。
偶然の真理悟れと申してあろう。
これがわかれば大安心。立命。
記:1952年2月3日
あなた任せ、よい妻と申してあろうが。
神任せがよい人民であるぞ。
この神と認めたら理解して、マカセ切れよ。
太元の神様にホレ参らせよ。
真の信仰の第一歩ぞ。
雨降らば雨を、風吹けば風を、ひとまず甘受せよ。
甘受した後、処理して行かなならん。
受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。
何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。
何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。
内にあるから外から迫るのじゃ。
自分で呼び寄せているのじゃ。
苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、
不足申している者 多いのう。
自分で呼び寄せながら嫌がってハネ返すテあるまいのう。
同じものでも表からと裏からとでは違うのじゃ。
同じ目で見ても、違って映るのじゃ。
心得よ。
記:1952年2月3日
希望は愛の現れの一つ。
どんな時、どんな人にも与えられているのじゃ。
希望に燃えつつ、現在を足場として生きよ。呼吸せよ。
同じことしていても、希望持つ人は栄え、希望なき人は亡びる。
希望は神ぞ。
アイウエオからアオウエイの世に移って来るぞ。
アオウエイの世が天国じゃ。
用意はよいか。
今の世は道具ばかりじゃ。
使う人民、早うつくれよ。
記:1952年2月3日
アイウエオ=現代の人の作った語順、アオウエイ=神の作った古代語の語順
原点回帰の意味だろう
使命がいのち。
上から、神から命じられたことがいのちぞ。
使命はつくられた時に与えられる。
使命なくてものは生まれんぞ。
自分の使命は内に聞きつつ外に聞けよ。
使命果たすがよろこびぞ。
使命果たすには生命がけでなくてはならん。
生命じゃからのう。
努力した上にもせなならんぞ。
努力には苦もあるぞ。
苦のない努力はないぞ。
右を動かせば左も動くぞ。
果たせば苦は楽。
果たさねば楽も苦。
重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのじゃ。
神が主であるぞ。
記:1952年2月3日
小乗の行と馬鹿にするでないぞ。
理屈で神を割り出したり、
ソロバンでハジキ出したり、
今の鼻高さんはしているなれど、
どこまで行ってもわかりはせんぞ。
土耕す祈りに神の姿現れるぞ。
とどまってはならん。
いつも弥栄弥栄に動いて行かなならん。
大中心に向かって進まねばならん。
途中には途中の、大には大の、中には中の、小には小の中心はあるなれど、
行くところは一つじゃ。
じゃと申して小の中心を忘れてはならん。
神は順であるぞ。
まず小の神から進んで行けよ。
本当のこと知るには、本当の鍛錬要るのじゃ。
棚からボタモチ食っていては段々やせ細るのみ。
鍛えよ鍛えよ。
鍛えればこそ光出て来るのじゃ。
記:1952年2月3日
他力の中の自力じゃ。
じゃと申して、任せ切ったと申して、懐手ならん。
自力大切じゃ。
まつりは常住坐臥にあるぞ。
拝むばかりではならん。
【拝むまつりはまつりのカタじゃ】
カタから入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律いるぞ。
カタに囚われてはならん。
戒律の世界にいつまでもいてはならん。
十年経てば十才になるぞ。
恩、知らねばならん。
恩に報いなければならんぞ。
人民、天地の恩 忘れているから、喜び少ないのじゃ。
ものの順序わきまえねばならん。
悪平等ならん。
政治や経済は裏、二義的のもの。
記:1952年2月3日
常住坐臥=いつ、どんな時でも
太一二+◯大神としてこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。
その働きの名がもろもろの神様の名じゃ。無限であるぞ。
このほう一柱であるが無限柱ぞ。すべてが神であるぞ。
一神じゃ。多神ぢゃ。汎神じゃ。
すべてが神じゃ。喜びじゃ。
始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの。
手でも足でもよい、どこでもよいから掴めるところから掴んでござれよ。
だんだんわかって来るぞ。
全体を掴むには全体と同じにならねばならん。
その人民人民の掴めるところから掴んで参れよ。
このほう抱き参らせてやるぞ。マツリから出直せよ。
天地見よ。大きマツリ致しておろうがな。
霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。
二二のマツリ、出船の港じゃ。
奥から来るものは喜びじゃ。念じゃ。力のもとじゃ。生きの生命じゃ。
神様にはハラを向けなさい。
記:1952年2月3日
宇宙のすべてはこの神の現れであり、一面であるから、
そのどこつかんで拝んでもよいのである。
そのどこつかんで、すがってもよいのであるぞ。
水の流れも宗教ぞと申してあろう。
すべてに神の息、通うているぞ。
一本の箸 拝んでもよいのじゃ。
ちゃんとめあて、よいめあて、決めねばならん。
内の自分に火つけよ。
心暗くては何もわからん。
世の中は暗く見えるであろう。
真っ暗に見えたら自分の心に光ないのじゃ。心せよ
自分光れば世の中明るいぞ。
より上のものから流れてくるものに まつりて行くこと大切じゃ。
それがまつりの元。
それが宗教じゃ。
宗教は生活じゃ。
生活は宗教じゃ。
裏と表じゃ。
記:1952年2月3日
順と区別さえ心得ておれば、
何様を拝んでもよいと申してあろうが。
日の神様ばかりに囚われるとわからんことになるぞ。
気つけおくぞ。
それでは理にならん。
父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。
おかげないぞ。
おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。
手だけ尊んではいかん。
足だけ尊んでもいかん。
一切に向かって感謝せよと申してあろうが。
門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。
順序を馬鹿にしてはならんぞ。
いつまで門に立っていても何もならん。
お出直しじゃ。
川がなければ水流れん道理。
始めはカタふんで行かなならんぞ。
記:1952年2月3日
自分捨てて他力なし。
人民なくしてこの世の仕事できん。
人民は道具ぢゃ。
神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。
道具だけではならん。
大神は一切を幸いし、一切を救い給うのであるぞ。
一切が神であり一切が喜びであるぞ。
その人民にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。
人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。
一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。
果たさねばならん。
善人が苦しむ一つの原因であるぞ。
神の大きな恵みであり試練であるぞ。
わかったか。
愛するものほど、その度が濃いほど、魂が入っているのぢゃ。
先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。
現界のみの理屈は通らんぞ。
とんだ目に会うぞ。
気つけおくぞ。
念じてから行え。
記:1952年2月1日
第4帖〜第23帖/第24帖〜第32帖の順番逆転?
局部的に見るからわからんのじゃ。
文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見えるのじゃ。
手見るはまだよい方じゃ。
筆の先だけしか見えん。
筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考え方じゃ。
筆が一番偉いと思ってござるのじゃ。
信仰に入った始めはよいが、途中からわからなくなるのじゃ。
そこが大切ぞ。
わからなくなったら神示読めよ。
キ頂いてよみがえるぞ。
出足の港は二二の理からじゃと申してあろう。
【真理】と申してあろう。
これが乱れると世が乱れるぞ。
神界の乱れイロからじゃと申してあろう。
男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。
今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。
和は力ぞ。
記:1952年2月1日
神に任せきると申しても、
それは自分で最善を尽くして後のことじゃ。
努力なしに任せるのは悪任せじゃ。
悪お任せ多いのう。
魂の財産は金を得るより数倍難しいぞ。
ぬれ手で粟のやり方、カスつかむぞ。
むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやしくなったりするのは、
まだめぐりあるからじゃ。
めぐりの霊界との因縁が切れておらぬからじゃ。
愛は養わねばならん。
夫婦は命がけで、お互いに築き合わねばならんぞ。
夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。
生み出すのじゃ。
つくり出すのじゃ。
そこに尊さあるぞ。
喜びあるぞ。
左には宗教、右には芸術。
記:1952年2月1日
八合目あたりに参ると すべての様子が、ほぼ見当つくぞ。
それまでは誰でもよくわからんもんじゃ。
これという先達があったら、
先達の言うこと、言う通りについて行けよ。
おかしい先達は始めからおかしいぞ。
苦労し、手をかけ、金かけるほど良いものできるぞ。
信念越えて自分より上のものに任せ切ったのが理解であるぞ。
信念だけでは何事もできん。
確信は理解からぞ。
記:1952年2月1日
親子、夫婦、兄弟姉妹と生まれても逆縁あるぞ。
カタキ同士 結ばれることもあるぞ。
それは神の大き恵みぞ。
それに打ち勝って、新しき生命うみ出して仕えまつれ。
体験ないところに宗教はない。
記:1952年2月1日
神から出るものは理に決まっているぞ。
この平凡の理の道理が なぜにわからんのじゃ。
得心できんのじゃ。
それに従えばこそ向上、弥栄するのじゃ。
天狗だから、慢心するから、理がなくなるから行き詰まるのじゃ。
一応は世界一家のカタできるのじゃ。
が、それではならん。
それを越えて、ねり直してマコトの一家となるのじゃ。
天が上で地が下で、中にゝあるのじゃ。
それがミロクの世じゃ。
気長にやれと申してあろう。
長い苦心なければ良いものできん。
この世ででき終わらねば、
あの世まで持ち続けても やり続けてもよいのじゃ。
そなた達はあまりにも気が短いぞ。
それではならんのう。
マコトの生活は永遠性持っているぞ。
これないものは宗道でないぞ。
記:1952年2月1日
宇宙のすべてがつながりであるぞ。
石でも水でも草でも木でも動物でも すべてがつながりじゃ。
手と足のようなもんじゃ。
拝み合えよ。
親しみ合えよ。
和せよ。
和すと自分となるのじゃぞ。
自分 大きく、明るくなるのじゃ。
豊かにうれしうれしじゃ。
赤いものの中にいると赤くなって行く。
理に向かっていると、いつの間にか神の気いただくぞ。
神の光がいただけるのじゃ。
二度三度、話聞いたり、拝んだりくらいで理はわからん。
神は解らん。
体験せねばならん。
一方的では何事も成就せん。
もちつもたれつであると申してあろう。
記:1952年2月1日
今の自分の環境がどんなであろうと、
それは事実であるぞ。
境遇に不足申すなよ。
現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。
そこにこそ神の光、よろこび現れるのじゃ。
逃げ道つくれば迷いの道に入るぞ。
楽に得たもの、楽に失う。
記:1952年2月1日
信仰の始めは感情に支配されがちじゃ。
理智を強く働かせねばならんぞ。
人間は絶えず穢れてくる。
穢れは清めることによって、あらたまる。
厄祓いせよ。
福祓いせよ。
想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。
中の霊は天国へ行っても、
外の霊はこの世に残るぞ。
残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業を繰り返すことあるぞ。
早く洗濯せよと申してあろうがな。
梅の木から梅が生えるのじゃ。
その梅に実できて また梅が生えるのじゃ。
人間も生まれかわっても死にかわっても、
中々に悪い癖は直らんもんじゃぞ。
それを少しずつ直してかからねばならん。
努力次第で漸次直るのじゃぞ。
宗教は霊、芸術は体ぞ。
記:1952年2月1日
第4帖〜第23帖/第24帖〜第32帖の順番逆転?
新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみがえりけり。
今の科学は科学のことはわかるが、
それより上のことはわからん。
今の科学は「あるものがある」ということだけしかわからんのじゃ。
よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、
よい理解となり、よい生活 生まれる。
間違った求めには間違った神、
間違った生活 生まれるぞ。
道理じゃナァ。
窮屈であってはならん。
しかつめらしく固くなっていてはならんぞ。
笑いの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのじゃ。
宿命は宿されたもの。
一つのワクに入っているのであるぞ。
運命は自分で切りひらくことできるぞ。
磨け磨け、ミタマ磨き結構。
信念だけでは行き詰まるぞ。
記:1952年2月4日
自分は自分の意志で生まれたのではないのじゃ。
その時、その環境を無視できん。
その法則に従わねばならん。
草を拝めば草が神となり、
機械拝めば機械が神じゃ。
食物拝めば食物が神となる。
心せよ。
神は人民を根本から永遠の意味で良くしようと、
マコトの喜び与えようとしているのじゃ。
局部的、瞬間的に見てわからんこと多いぞ。
おかげはすぐにはないものと思え。
すぐのおかげは下級霊。
眉に唾せよ、考えよ。
現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。
それに感謝せよ。
積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。
誠の真理を知らぬ人間に神はわからん。
記:1952年2月4日
念じつつやれ。
神のためと念じつつやれば神のためとなる。
小さい行為でも霊的には大きはたらきするのじゃ。
自分と言うことが強くなるから発展ないのじゃ。
行き止まるのじゃ。我よしとなるのじゃ。
調和が神の現れであるぞ。
霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。
食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。
うれしうれしぞ。
一生かかってもよいぞ。遅くないのじゃ。
自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。
悪い癖直さねばならん。
これが第一歩、土台じゃぞよ。
よきことは 人にゆずりて 人をほめ 人たてるこそ人の人なる。
敬愛の まこと心に まことのり まこと行う 人ぞ人なる。
記:1952年2月4日
何事に向かっても先ず感謝せよ。
ありがたいと思え。
始めはマネゴごとでもよいぞ。
結構と思え。
幸いと思え。
そこに神の力 加わるぞ。
道は感謝からぞ。
不足申せば不足うつるぞ。
心のままとくどう申してあろうが。
病気でないと思え。
弥栄と思え。
病治るモト生まれるぞ。
キがもとぞ。
何事くるとも何クソと思え。
神の力 加わるぞ。
恐れは恐れ生むぞと申してあろうが。
一聞いて十悟らねばならんぞ。
今の人民には何事も平面的に説かねばわからんし、
平面的では立体のこと、次元の違うことはわからんし、
ハラで悟りて下されよと申してあろう。
記:1952年2月12日
相手八と出たら二と受けよ。
人民と申す者はモノに囚われるから何事もわからんから、
十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとしてわからんことになるぞ。
十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。
また十二と受ける手もあるぞ。
二十と出たら八十と和せよ。
立体になれば それだけ自由になるのだ。
世界広くなるのぞ。
早う立体さとりくれよ。
記:1952年2月12日
●の次に✺があり、その次に✳があり、+あると申してあろう。
立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。
×と÷と和せば✳となるぞ。複立体であるぞ。
✺が複々立体、●が立立体ぞ。
ゝ◯がその元であるぞ。
わかりたか。
ゝ◯となれば超自由、超自在、超無限ぞ。
それだけにまた超完成であるぞ。
超未完成でもあるぞ。
神は全智全能から超全智全能に弥栄しているぞ。
難しいようなれど、このことよくわかって下されよ。
新しき段階に入る門ぞ。
記:1952年2月12日
道は三つと申してあろう。
三とは参であるぞ。
3でないぞと申してあろう。
無限であるぞ。
平面的に申せば右と左とだけでないぞ。
その右の外に、また左の外に道でなき道あるぞ。
それを善の外道、悪の外道と申す。
外道多いのう。
中の中には中の道あるぞ。
中の中のゝは無であるから動きないぞ。
動きないから無限の動きじゃ。
そのゝの外の中は人民にも動き見ゆるぞ。
この道は中ゆく道だと申してあろうが、
中のゝの道は太神の道、中行く道が神の道、
中の道が人の道じゃ。
わかりたか。
記:1952年2月12日
思想と申すのは広い意味で、
太神から出ているのではあるが、
幽界からの力が強く加わっているのじゃ。
ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。
悪の気、断たねばネンとはならんぞ。
記:1952年2月12日
天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。
同じ道であるが違うのぞ。
地にうつし、人民にうつす時には、地の約束、人民の約束に従うのぞ。
約束は神でも破れんのであるぞ。
次元違うのであるから違って来るぞ。
違うのが真実であるぞ。
それを同じに説いたのが悪の教え。
同じと思うのが悪の考え方であるぞ。
上から来るものは光となって流れて来るのだ。
光に本来影はないのであるが、動くから影が生まれる。
それを影でない影と申すぞ。
悪でない悪あると申してあろうがな。
天には天の自由、地には地の自由、
神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。
その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由あるぞ。
自由あればこそ動くぞ。
自由とは弥栄のこと。
光は神から人民に与えられている。
光に向かうから照らされる。
光はゝ、真、善、美、愛となり、
またそのうらの◯、疑、悪、醜、憎となり現れるぞ。
御用の善となり、御用の悪となる。
悪憎むは外道の善。
外道とは上からの光が一度人民界にうつり、
人民界の自由の範囲に於ける凹凸にうつり、
それが再び霊界にうつる。
それが幽界と申してあろう。
その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのだ。
善にも外道あるぞ。
心得よ。
光は天のみでなく、地からも人民からも、
すべて生命あるものから出ているのであるが、
その喜びの度に正比例してのものであるから、
小さい生命からの光はわからんのであるぞ。
記:1952年2月12日
戦は善にもあり、悪にもあり、
右には右の、左には左の、上には上の、
下には下の、中には中の、外には外の戦あるぞ。
新しき御代が到来しても戦はなくならん。
戦も歩みぞ。
弥栄ぞ。
じゃと申して今のような外道の戦でないぞ。
人殺し、生命殺すような戦は外道。
やればやるほど激しくなるぞ。
正道の戦は人を生かす戦、やればやるほど進むのじゃ
今の人民戦と申せば、人の殺し合いと早合点するが、
それは外道の戦。
天国への戦もあるぞ。
幽界への戦もあるぞ。
人民のいう今の戦、今の武器は、人殺す外道の道、
それではならんのう。
外道なくして下されよ。
外道はないのであるから、外道抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。
新しき霊界は神人共でつくり出されるのだ。
それは大いなる喜びであるからぞ。
神のみ旨であるからぞ。
新しき世はあけているぞ。
夜明ければヤミはなくなるぞ。
新しきカタはこの中からぞ。
日本からぞ。
日本良くならねば世界は良くならん。
外道の武器捨てよ。
外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。
変えられるでないか。
記:1952年2月12日
与えよ、与えよ、与えよ、
与える政治と申してあろうが。
戦争か平和かと人民申しているなれど、
道はその二つでないぞ。
三が道と、くどう申してあろう。
水の外道の武器と火の外道の武器の他に、
新しき武器気づかんのか。
神示よく読めば示してあるのであるぞ。
ほかに道ないと決めてかかるからわからんのだ。
生まれ赤児になればわかるぞ。
知らせてやりたいなれど、
知らせてわかるのでは自分のものとならん。
自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。
つけ焼き刃は危ない、危ない。
気狂いに刃物ぞ。
平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。
神人共にとけ合うことぞ。
外道でない善と悪ととけ合うのぞ。
善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。
外道は夜明け来れば消えてしまうぞ。
夜明けの御用大切と申してあろうが。
外道の悪 殺すでないぞ。
抱き参らすから消えるのであるぞ。
記:1952年2月12日
一時は人民なくなるところまで行くと申してあろうが。
人民なくしても人民なくならん。
洗濯して掃除して、新しき道 早う進めよ。
遅くなるほど難しく苦しくなるぞ。
近目で見るからわからん。
日本の世界あけたり。
あな爽々し、日本晴れぞ。
二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。
天のこと地にうつす時は、地の力出るように、地の息吹き通うように、
弥栄するように、念を地の力と現れるように、
正しくうつして下されよ。
邪気入ってはならん。
記:1952年2月12日
今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。
神界の裏打ちある武器でなくてはならん。
まことの武器ぞ。
ヒックリであるぞ。
念からつくり出せよ。
その念のもとをつくれば、神から力を与えるから、
この世の力と現れるぞ。
念の凸凹から出た幽界を抱き参らせねばならんのだ。
中々の御苦労であるなれど、
幽界を神界の一部に、力にまで引き寄せねばならん。
記:1952年2月12日
これぞと思う人があったら、その理の人についてござれよ。
一寸先見えん人民じゃ。
先達の後からついてござれ。
それが一番良いことじゃ。
人、見い出すこと難しいのう。
十年、二十年行じても、目あて違っていたら何にもならんぞ。
このほうの道へござれ。
正しき光の道に寄れよ。
十日で、一月で見違えるほどになるぞ。
死んだ気で神示をそなたの身にうつせよ。
涙流せよ。汗流せ。血流せよ。
天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。
部分的に人間苦しめるように思ってはならん。
一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。
人間、この世の五十年をもととして考えるから わからなくなるのぞ。
永遠弥栄の生命、早う体得結構。
記:1952年2月15日
その人によってふさわしい行がある。
誰でも同じでない。
一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。
身につかん行は、いくらしても何もならん。
いらん苦労はいらんと申してあろう。
風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人少ないぞ。
より高い聖所へ参りて魂のアカ落とせよ。
神示読んで落として下されよ。
アカ落とさずに神の光見えんと申して、
おかげないと、我よし申してござるなれど、
風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。
なぜにわからんのじゃ。
全体の為 奉仕するはよいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。
全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。
早合点禁物。
記:1952年2月15日
まことの光の道に行き、進めよ。
ここぞと見極めたら、
理解に向かってひたすら進まねばならん。
理屈いらん。
宇宙はこの方の中にあるのじゃ。
このほうじゃ。
世が段々せまって悪くなるように申しているが、それは局部的のこと。
大局から見れば、よきに向かって弥栄ているぞ。
夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。
秋になるぞ。冬もあるぞ。
冬ばかりと考えるでないぞ。
やがては春が訪れるのじゃ。
いずれも嬉し嬉しとなる仕組み。
記:1952年2月15日
どうしたらよいのじゃ、神の言うこと聞くから助けてくれ
と申す者たくさん出て来るが、
何も難しいこと神は申さん。
現在を足場として一歩ずつ進めば良いのじゃ。
それでは食って行けんと申す者あるが、
神はあり余るほど与えてあるでないか。
なぜ、手を出さんのじゃ。
与えたもののみが自分のものぞ。
今の人民、余っても足らんと考えて、
貪りているぞ。
幸福与えてあるのに なぜ手を出さんのじゃ。
曲げて取るのじゃ。
心の目ひらけよ。
ゴモク投げ出せよ。
我の強い守護神殿、もう我の世は済んだぞ。
我出すほど苦しくなるのじゃ。
記:1952年2月15日
見える幸福には限りがあり、見えぬ幸福は永遠であるぞ。
理にいそしめ。
理にとけ入れよ。
モノは無くなるぞ。
霊は永遠に弥栄えるぞ。
毎日毎日掃除してもホコリはたまる。
絶えず心の掃除よいか。洗濯よいか。
目に見えず上、下、左、右、前、後から何となく迫って来るものを審神者せよ。
審神者して受け入れねばならん。
自分の魂をはぐくみ、生長させてくれる大切なものは
目に見えんところから流れて来るぞ。
和せよ。調和せよ。
調和とは上から、より清いところから流れて来るものに従うことぞ。
いよいよが一四一四となるぞ。
雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒れの神、大地震の神。
記:1952年2月15日
十二年遅れているのを取り戻すのであるから、
これからは目の回るほど急しくなって来るぞ。
神示読む暇もなくなると申してある時来たぞ。
いずれは人民減るなれど、何も約束ごと真理とはかえられん。
まこと求めるならば、これと見届けたならば、
その場で御用与える仕組み。
記:1952年2月15日
行く水にも雲にも咲く花にも神の御心あるぞ。
それ見る目ないからわからんのじゃ。
掃除すればわかる。
掃除結構。
拝むは拝まんよりましであるぞ。
しかし拝んでばかりでは病気は治らん。
金は儲からん。
拝むばかりで金儲けできたり病気治ったりすると思ったら間違いぞ。
理にいそしめ。
理ゆくところ喜びあるぞ。
喜びあるから病気も治るのじゃ。
金も出てくるのじゃ。
おかげあるのじゃ。
喜び神じゃ。
タテには神と神界と和し、
ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、
生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。
記:1952年2月15日
後にも先にもない、みせしめ出てくるぞ。
めぐりひどいところほど、ひどい見せしめ。
神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。
自分でびっくり。
まことの人ほどおかげ遅い。
遅いほど大きおかげあるぞ。
同じ筋のミタマたくさんにあるのじゃ。
類魂と人民申しているもの。
いくら因縁あっても曇りひどいと、
その類魂の中から次々に代わりのミタマ使う仕組み。
とやかく申さずに素直についてござれ。
記:1952年2月15日
心の洗濯 早う致して太ゝ◯〃◯+◯(オオヒツキ)太神様に、
ことに育ての、生みの親さま 九二十九十千(クニトコタチ)の大神様の
御実体を理解せねば、
自分でいくら頑張っても やりそこないじゃ。
我が我がと思っているなれど、
皆このほうが影からさせているのに気づかんのか。
「お詫びせよ」と申せば、そんな悪いことした覚えないと申すが、
どこまで曇ったのじゃ。
神に捧げるには、
自分に与えられたものの中から捧げねばならんぞ。
むさぼり取ったり横取りしたり、
自分のものでないもの、
儲けたカスを神に捧げて威張っているが、
それは捧げ物にならん。
神は受け給わらんぞ。
泥棒のお残りちょうだいは真っ平じゃ。
自分のものまず捧げるから弥栄えるのぞ。
おかげ万倍間違いなし。
記:1952年2月15日
一足飛びには行かん。一歩一歩と申してあろう。
一度に神様を知りたいと申しても そうは行かん。
一年生からじゃ。出直し出直し。
子供に大学のことはわからん。
十貫の荷物は担げん道理。
進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。
胡坐かいて、懐手していてはできん。
時もいるぞ。
金もいるぞ。
汗もいるぞ。
血もいるぞ。
涙もいるぞ。
良いものほど値が高い。
今を元として自分を元として善じゃ悪じゃと申してはならん。
よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。
神も仏もないのじゃと申しているが、
それは人民の近目ぞ。
一方的の見方ぞ。
長い目で見よと申してあろうが。
永遠の理 わきまえよと申してあろうが。
支払窓は金くれるところ、預け口は金取るところ。
同じ銀行でも部分的には、逆さのことしているでないか。
全体と永遠を見ねば ものごとわからんぞ。
よく心得よ。
記:1952年2月15日