▲top

    春の巻(全文)

 

春の巻〜第1帖 →超訳

新しき御代の始めのタツの年、スメ大神の生まれ()(たま)いぬ。
皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからじゃと申してあろうが。
始めの始めと始めが違うぞ。
皆始めヒからじゃ。
(あか)()になって出直せよ。
ハラで見、ハラで聞き、ハラで話せよ。
ハラには間違いないのじゃ。
祈りばかりでは祈り地獄、神から光頂けるように(みち)つけねばならん。
水は低きに流れるぞ。
喜びに(かな)う心、喜びの(ぎょう)あるところ喜び来るのじゃ。
喜びにも正しきと曲がれるとあるぞ。
無限段階あるのじゃ。
心して迷わんように致してくれよ。
ここは光の(みち)伝え、行うところ、教えでないと申してあろう。
教えは教えにすぎん。
(みち)でなくては、今度はならんのじゃ。
天の(みち)、地の(みち)もろもろの(みち)、カタ早う急ぐぞ。
教えは局部的、時、所で違うのじゃ。
迷信となるぞ。
ハラが神であるぞ。

記:1952年1月27日(旧元旦)

 

春の巻〜第2帖 →超訳

カミヒトと申すのは、神の弥栄(いやさか)のため、世の弥栄(いやさか)のため祈り、
実践する人のことであるぞ。
神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのじゃ。
自分のためばかりで祈れば迷信、我よしの下の下ぞ。
誰でも霊かかりであるぞ。
石でも木でも土でも霊かかりぞ。
これは一般かみかかりであるぞ。
特別神かかりは神の御力を強く深く集める(ぎょう)がいるのじゃ。
九分通りしくじるのじゃ。
太陽の光集めること知っているであろうが。
神の(みち)をより良く、より高く集める(みち)がマコトの信仰であるぞ。
(みち)であるぞ。
世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのじゃ。
悪かみかかりに迷うでないぞ。
審神者(さにわ)せよ。
外はウソが多いぞ。
内の声ウソないぞ。

記:1952年1月27日(旧元旦)

 

春の巻〜第3帖 →超訳

掛巻も、(かしこ)(きわ)み、九二つ千(くにつち)(国土)の、(すが)の中なる大清(おおきよ)み、
清みし中の、清らなる、清き真中の、よろこびの、その真中なる、御光の、
そが御力ぞ、(あや)によし、十九(とこ)(たち)(常立)まし、(おお)九二(くに)(大国)の十九(とこ)(たちの)(常立)大神、
十四九百(とよくも)ヌ(豊雲野)、十四(とよ)(豊)の大神、
()(おり)()のヒメの大神、速秋(はやあき)の、(あき)()ヒメ神、
()(ぶき)()の、主の大神、速々の、佐須良(さすら)ヒメ神、
 これやこの、(おお)()(つき)◯、皇神(すめかみ)御前(おんまえ)(かしこ)み、(つつし)みて、
うなね突き貫き、白さまく、ことの()(コト)を。
伊行く水、流れ流れて、月速(つきはや)み、いつのほどにや、この年の、冬も呉竹、
一と(よさ)の、(あずさ)の弓の、今とはや、明けなむ春の、立ちそめし、
()玉新玉(たまあらたま)、よろこびの、神の()(いづ)に、つらつらや、
思い浮かべば、天地(あめつち)の、始めの時に、(おお)御祖神(みおや)
九二十九(くにとこ)(たち)(国常立)の、大神伊、三千年、またも三千年の、もまた三千年、
浮きに瀬に、忍び()えまし、波風の、その荒々し、(わた)津海(つみ)の、
塩の八百路(やおじ)の、()(しお)()の、(しお)八穂合(やおあ)い、洗われし、
弧島の中の、(こも)らいし、(こも)りたまいて、(かしこ)くも、この世かまいし、大神の、
時めぐり来て、一筋(ひとすじ)の、光の御代と、出でませし、めでたき日にぞ、今日の日は、
御前(おんまえ)(かしこ)み、御饌御酒(みけみき)を、ささげまつりて、海山(うみやま)()
種々珍(くさぐさうず)の、みつぎもの、(そな)えまつりて、かごちもの、
ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕えん、まつらまく。
生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しける、罪やけがれの、あらむをば、
(はらい)()にます、(はらい)()の、大神達と相共に、ことはかりましし、
神直(かみなお)()大直(おおなお)()にぞ、見伊直し、聞き直しまし、(はら)いまし、
清めたまいて、清清(すがすが)し、(すが)()(たみ)と、きこし召し、
(あい)(うずな)いて、玉えかし、玉はれかしと、多米津(ためつ)もの、百取(ももとり)、さらに、百取(ももとり)の、
机の(しろ)に、()らはして、横山のごとく、波のごとく、伊盛、(さか)ゆる、大神の、
神の御前に、まつらまく、こいのみまつる、(かしこ)みて、まつらく(しら)す、(いや)つぎつぎに。

新玉(あらたま)の 玉の()(とし)の 明けそめて 罪もけがれも 今はあらじな

節分の祝詞(のりと)であるぞ。
太のりとせよ。
いよいよの年立ち()めたぞ。
うれしうれしの御代来るぞ。

記:1952年1月30日

 

春の巻〜第4帖 →超訳

 |◯がよろこびであるぞ。
 ─◯もよろこびであるぞ。
よろこびにも三つあるぞ。
   |◯は表、─◯は裏、表裏合わせて+◯ぞ。
 +◯は神であるぞ。
神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。
  +◯のもとがゝ◯であるぞ。
キであるぞ。
元の元の太元の神であるぞ。
△(ム)であるぞ。
△(ム)から▽(ウ)生まれ、▽(ウ)から△(ム)生まれるぞ。
同じ名の神二つあると申してあろうが。
表の喜びがゝ、愛、真、善、美となり現れ、
裏の喜びからは、◯、憎、偽、悪、醜が現れるのじゃ。
喜びが神じゃと申して裏の喜びではならんぞ。
今の人民の喜びと申すには裏の喜びであるぞ。
悲しみを喜びと取り違えているぞ。
この巻、春の巻。
こまかに説いてわかりやすく説いて聞かすぞ。
分ければそれだけ小さくなるなれど。

記:1952年2月3日

第4帖〜第23帖/第24帖〜第32帖の順番逆転?

 

春の巻〜第5帖 →超訳

人民 栄えて行くことは、神、弥栄(いやさか)のことぞ。
神も人民も、世界も、宇宙も、すべていつまでも未完成ぞ。
神様でも大神様はわからんのであるぞ。
ただ、喜びに向かってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。
正しき喜びを先ず見極めよ。
見極めてひたすらに進めばよいのじゃ。
食物を食べるのも喜びであるぞ。
正しき食物 正しく食べよ。
更に喜び増えて弥栄(いやさか)えるのじゃ。
自分の喜びを進め進めて天国へ入ることできるのじゃ。
悪い食物 悪く食べるから悪くなるのじゃ。
目に見える食物ばかりでないぞ。
何もかも同様ぞ。
人民は喜びの子と申してあろう。
罪の子でないぞ。
(うれ)(うれ)しの道あるのに、なぜ歩まんのじゃ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第6帖 →超訳

喜びがゝ、真、善、美、愛と現れ、それがまた、喜びとなり、
また、ゝ、真、善、美、愛となり、また現れ、限りないのじゃ。
喜びの本体はあの世、現れはこの世、あの世とこの世合わせて真実の世となるのぞ。
あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。
あの世とこの世と合わせ鏡。
 神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をゝ◯として、心として生命(いのち)しているのじゃ。
神人と申してあろうがな。
この十理(どうり)よくわきまえよ。
この世にあるものの生命(いのち)はあの世のもの、あの世の生命(いのち)の衣はこの世のもの。
くどいようなれどこのこと(はら)の中に、得心なされよ。
これが得心できねば どんなによいことしても、まこと申しても なにもならん、ウタカタじゃぞ。
時節来たのじゃから、今までのように一方だけではならんぞよ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第7帖 →超訳

こと分けて書きおくから、迷わんように。
人民の(みち)歩んでくれよ。
何もかも(うれ)(うれ)しとなる仕組み、
人民に(わざわい)ないのじゃ。
不足ないのじゃ。
いつも楽し楽しの歌で暮らせる仕組みじゃぞ。
と申しても、心でわかっても、今の人民にはわかるまいから、
更にこと分けて、こまかに説いて聞かすぞ。
(みち)しるべをつくりおくぞ。
これがよろこびの(みち)じゃ。
人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。
人民と申す者は神の喜びの(まった)き現れであるぞ。
いくらけがれても元の神の根元神のキをうけているぞ。
それを育てることじゃ。
導くことじゃ。
死なんとする人助けるのもその一つじゃ。
宿(やど)った子殺すことは、人民殺すことじゃ。
今の人民 九分九厘は死んでいるぞ。
救え、救え、救え。
おかげは取り(どく)じゃ。
生かせよ。生かせよ。
生かす(みち)神示(ふで)読むことじゃ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第8帖 →超訳

人民をほめること よいことじゃ。
ほめて、その非を悟らせよ。
罪許すことじゃ。
もの生かすことじゃ。
生かして使うことじゃ。
神示(ふで) ひろめることじゃ。
やって見なされ。
必ず(うれ)(うれ)しとなるぞ。
栄えるぞ。
(うれ)しくなかったら神はこの世におらんぞよ。
神示(ふで)は一本道じゃ。
始めからの神示(ふで)読んで、よく読んで見なされ。
何もかもハッキリしてくるぞ。
神示(ふで)うつして下されよ。
世界にうつすことよろこびぞ。
地に天国うつすことぞ。
難しいことないぞ。
今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、それでよいのじゃ。
裏は裏として生きるのじゃぞ。
金は使うもの。
使われるものでないこと よくわかっておろうがな。
御苦労のことやめなされよ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第9帖 →超訳

人民には分別与えてあるから反省できるのであるぞ。
反省あるから進展するのであるぞ。
放っておいても、要らんものは無くなり、要るものは栄えるのであるが、
人民の努力によっては、より良くなるのじゃ。
省みねば生まれた時より悪くなると申してあろうが。
慾、浄化して喜びとせよ。
喜び何からでも生まれるぞ。
広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。
物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命(いのち)が与えられるのじゃ。
無限の喜び得ることできるのじゃ。
無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。
真理を知ることが、無限を得ること。
まことの神をつかむことぞ。
よいもの作るには大き手数かかるのじゃ。
(ふところ)()でいてはできん。
手出せ、足出せよ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第10帖 →超訳

一切のものは(うず)であるぞ。
同じこと繰り返しているように、人民には見えるであろうなれど、
一段ずつ進んでいるのであるぞ。
木でも草でも同様ぞ。
前の春と今年の春とは、同じであって違っておろうがな。
行き詰まりがありがたいのじゃ。
進んでいるからこそ、行き当たり行き詰まるのじゃ。
(かえり)みる時与えられるのじゃ。
悟りの時与えられるのじゃ。
ものは、離すからこそ(つか)めるのじゃ。
固く握って戸閉めていてはならんのう。
(とびら)開けておけと申してあろうが。
着物脱いで裸体となることつらいであろうなれど、
脱がねば新しい着物は着られんぞ。
裸になってブツカレよ。
神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。
重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第11帖 →超訳

内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ。
先祖(おろそ)かにするでないぞ。
先祖まつることは自分まつることぞ。
外の自分と申しても肉体ばかりでないぞ。
肉体霊も外の自分であるぞ。
信じ切るからこそ飛躍するのじゃぞ。
不信に進歩弥栄(いやさか)ないぞ。
任せ切るからこそ神となるのじゃ。
神に通じるのじゃ。
他力で自力であるぞ。
真剣なければ百年たっても同じ所ウヨウヨじゃ。
一歩も進まん。
進まんことは遅れていることぞ。
真剣なれば失敗しても良いと申してあろうが。
省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。
いい加減が一旦成功しても土台ないからウタカタじゃ。
下座の行、大切。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第12帖 →超訳

無くて七癖、七七 四十九癖、悪い癖 直して下されよ。
天国へ行く鍵ぞ。
直せば直しただけ外へ響くものが、変わって来るぞ。
良くなって来るぞ。
変わって来れば、外から来るもの、自分に来るもの、変わって来るぞ。
良くなって来るぞ。
幸となるぞ。
喜び満ち満つぞ。
神満ち満ちて天国じゃ。
(いっ)(しょう)(ます)持って来て(いっ)()入れよと人民申しているが、
神は(いっ)()二斗(にと)も入れてやりたいなれど、(いっ)(しょう)(ます)には(いっ)(しょう)しか入らん。
大き(ます)持って来い。
(いただ)くには(いただ)くだけの資格いるぞ。
一歩ずつ進め。
一歩ずつ()えず進めよ。
それより他に道はないのじゃ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第13帖 →超訳

自分は良いが、世の中が悪いのじゃと申しているが、その自分(かえり)みよ。
自分が神の(みち)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。
輝いているぞ。
自分に振りかかって来る一切のものは最善のものと思え。
いかなる悪いことも それは最善のものであるぞ。
この道理よくわきまえて下されよ。
真の神を理解すれば、一切の幸福 得られるのじゃ。
世を呪うことは自分を呪うこと。
世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。
このこと悟れば一切はそこからひらけ来るぞ。
十のもの受けるには十の努力。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第14帖 →超訳

どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。
だから生きているのじゃ。
そのはたらき御用忘れるから苦しむ。
行き詰まる。
御用忘れるから亡びるのじゃ。
個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。
御用大切、御用結構。
日本が変わって世界となったのじゃ。
自分のためばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。
悪の祈りには悪の神。
善の祈りには善の神。
始めの間は中々わからんものじゃ。
神様のなされるマネから始めて下されよ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第15帖 →超訳

思うようにならんのは、天地の弥栄(いやさか)、育成化育にあずかって働いていないからぞ。
今の世界の行き詰まりは、世界が世界の御用をしてないからじゃ。
神示(ふで)読めよ。
()(ふみ) 世界にうつせよ。
早ううつせよ。
人間の智のみでは世界はよくならん。
裏側だけ清めても総体は清まらん。
神に目覚めねばならん。
神にも内のものと外のものとがある。
愛と申せば何でもよいと思うていてはならん。
愛の悪もあるぞ。
すべてこの通りじゃ。
上の、より高いところから来るから奇跡と見え、偶然と見えるのじゃ。
神からの現れであるから、その手順がわからんから偶然と見えるのじゃぞ。
偶然の真理悟れと申してあろう。
これがわかれば大安心。立命。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第16帖 →超訳

あなた(まか)せ、よい妻と申してあろうが。
神任せがよい人民であるぞ。
この神と認めたら理解して、マカセ切れよ。
太元(おおもと)の神様にホレ参らせよ。
真の信仰の第一歩ぞ。
雨降らば雨を、風吹けば風を、ひとまず甘受せよ。
甘受した後、処理して行かなならん。
受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。
何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。
何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。
内にあるから外から迫るのじゃ。
自分で呼び寄せているのじゃ。
苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、
不足申している者 多いのう。
自分で呼び寄せながら嫌がってハネ返すテあるまいのう。
同じものでも表からと裏からとでは違うのじゃ。
同じ目で見ても、違って映るのじゃ。
心得よ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第17帖 →超訳

希望は愛の現れの一つ。
どんな時、どんな人にも与えられているのじゃ。
希望に燃えつつ、現在を足場として生きよ。呼吸せよ。
同じことしていても、希望持つ人は栄え、希望なき人は亡びる。
希望は神ぞ。
アイウエオからアオウエイの世に移って来るぞ。
アオウエイの世が天国じゃ。
用意はよいか。
今の世は道具ばかりじゃ。
使う人民、早うつくれよ。

記:1952年2月3日

アイウエオ=現代の人の作った語順、アオウエイ=神の作った古代語の語順
原点回帰の意味だろう

 

春の巻〜第18帖 →超訳

使命がいのち。
上から、神から命じられたことがいのちぞ。
使命はつくられた時に与えられる。
使命なくてものは生まれんぞ。
自分の使命は内に聞きつつ外に聞けよ。
使命果たすがよろこびぞ。
使命果たすには生命(いのち)がけでなくてはならん。
生命(いのち)じゃからのう。
努力した上にもせなならんぞ。
努力には苦もあるぞ。
苦のない努力はないぞ。
右を動かせば左も動くぞ。
果たせば苦は楽。
果たさねば楽も苦。
重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのじゃ。
神が主であるぞ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第19帖 →超訳

小乗(しょうじょう)(ぎょう)と馬鹿にするでないぞ。
理屈で神を割り出したり、
ソロバンでハジキ出したり、
今の鼻高さんはしているなれど、
どこまで行ってもわかりはせんぞ。
土耕す祈りに神の姿現れるぞ。
とどまってはならん。
いつも弥栄弥栄(いやさかいやさか)に動いて行かなならん。
大中心に向かって進まねばならん。
途中には途中の、大には大の、中には中の、小には小の中心はあるなれど、
行くところは一つじゃ。
じゃと申して小の中心を忘れてはならん。
神は順であるぞ。
まず小の神から進んで行けよ。
本当のこと知るには、本当の鍛錬(たんれん)()るのじゃ。
(たな)からボタモチ食っていては段々やせ細るのみ。
(いた)えよ(きた)えよ。
(きた)えればこそ光出て来るのじゃ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第20帖 →超訳

他力の中の自力じゃ。
じゃと申して、任せ切ったと申して、(ふところ)手ならん。
自力大切じゃ。
まつりは常住(じょうじゅう)坐臥(ざが)にあるぞ。
拝むばかりではならん。
【拝むまつりはまつりのカタじゃ】
カタから入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律いるぞ。
カタに(とら)われてはならん。
戒律の世界にいつまでもいてはならん。
十年()てば十才になるぞ。
恩、知らねばならん。
恩に(むく)いなければならんぞ。
人民、天地の恩 忘れているから、喜び少ないのじゃ。
ものの順序わきまえねばならん。
悪平等ならん。
政治や経済は裏、二義的のもの。

記:1952年2月3日

常住坐臥=いつ、どんな時でも

 

春の巻〜第21帖 →超訳

 (おお)一二(ひつ)()大神としてこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。
その働きの名がもろもろの神様の名じゃ。無限であるぞ。
このほう一柱であるが無限柱ぞ。すべてが神であるぞ。
一神じゃ。多神ぢゃ。汎神(はんしん)じゃ。
すべてが神じゃ。喜びじゃ。
始めから全体を(つか)もうとしても、それは無理と申すもの。
手でも足でもよい、どこでもよいから(つか)めるところから(つか)んでござれよ。
だんだんわかって来るぞ。
全体を(つか)むには全体と同じにならねばならん。
その人民人民の(つか)めるところから(つか)んで参れよ。
このほう抱き参らせてやるぞ。マツリから出直せよ。
天地見よ。大きマツリ致しておろうがな。
霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。
二二のマツリ、出船の港じゃ。
奥から来るものは喜びじゃ。念じゃ。力のもとじゃ。生きの生命(いのち)じゃ。
神様にはハラを向けなさい。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第22帖 →超訳

宇宙のすべてはこの神の現れであり、一面であるから、
そのどこつかんで(おが)んでもよいのである。
そのどこつかんで、すがってもよいのであるぞ。
水の流れも宗教ぞと申してあろう。
すべてに神の息、通うているぞ。
一本の(はし) 拝んでもよいのじゃ。
ちゃんとめあて、よいめあて、決めねばならん。
内の自分に火つけよ。
心暗くては何もわからん。
世の中は暗く見えるであろう。
真っ暗に見えたら自分の心に光ないのじゃ。心せよ
自分光れば世の中明るいぞ。
より上のものから流れてくるものに まつりて行くこと大切じゃ。
それがまつりの元。
それが宗教じゃ。
宗教は生活じゃ。
生活は宗教じゃ。
裏と表じゃ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第23帖 →超訳

順と区別さえ心得ておれば、
何様を拝んでもよいと申してあろうが。
日の神様ばかりに(とら)われるとわからんことになるぞ。
気つけおくぞ。
それでは(みち)にならん。
父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。
おかげないぞ。
おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。
手だけ尊んではいかん。
足だけ尊んでもいかん。
一切に向かって感謝せよと申してあろうが。
門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。
順序を馬鹿にしてはならんぞ。
いつまで門に立っていても何もならん。
お出直しじゃ。
川がなければ水流れん道理。
始めはカタふんで行かなならんぞ。

記:1952年2月3日

 

春の巻〜第24帖 →超訳

自分捨てて他力なし。
人民なくしてこの世の仕事できん。
人民は道具ぢゃ。
神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。
道具だけではならん。
大神は一切を幸いし、一切を救い(たま)うのであるぞ。
一切が神であり一切が喜びであるぞ。
その人民にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。
人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。
一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。
果たさねばならん。
善人が苦しむ一つの原因であるぞ。
神の大きな恵みであり試練であるぞ。
わかったか。
愛するものほど、その度が濃いほど、魂が入っているのぢゃ。
先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。
現界のみの理屈は通らんぞ。
とんだ目に会うぞ。
気つけおくぞ。
念じてから行え。

記:1952年2月1日

第4帖〜第23帖/第24帖〜第32帖の順番逆転?

 

春の巻〜第25帖 →超訳

局部的に見るからわからんのじゃ。
文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見えるのじゃ。
手見るはまだよい方じゃ。
筆の先だけしか見えん。
筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考え方じゃ。
筆が一番偉いと思ってござるのじゃ。
信仰に入った始めはよいが、途中からわからなくなるのじゃ。
そこが大切ぞ。
わからなくなったら神示(ふで)読めよ。
キ頂いてよみがえるぞ。
出足の港は二二の(みち)からじゃと申してあろう。
【真理】と申してあろう。
これが乱れると世が乱れるぞ。
神界の乱れイロからじゃと申してあろう。
男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。
今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。
和は力ぞ。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第26帖 →超訳

神に任せきると申しても、
それは自分で最善を尽くして後のことじゃ。
努力なしに任せるのは悪任せじゃ。
悪お任せ多いのう。
魂の財産は金を得るより数倍難しいぞ。
ぬれ手で(あわ)のやり方、カスつかむぞ。
むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやしくなったりするのは、
まだめぐりあるからじゃ。
めぐりの霊界との因縁が切れておらぬからじゃ。
愛は養わねばならん。
夫婦は命がけで、お互いに築き合わねばならんぞ。
夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。
生み出すのじゃ。
つくり出すのじゃ。
そこに尊さあるぞ。
喜びあるぞ。
左には宗教、右には芸術。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第27帖 →超訳

八合目あたりに参ると すべての様子が、ほぼ見当つくぞ。
それまでは誰でもよくわからんもんじゃ。
これという先達があったら、
先達の言うこと、言う通りについて行けよ。
おかしい先達は始めからおかしいぞ。
苦労し、手をかけ、金かけるほど良いものできるぞ。
信念越えて自分より上のものに任せ切ったのが理解であるぞ。
信念だけでは何事もできん。
確信は理解からぞ。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第28帖 →超訳

親子、夫婦、兄弟姉妹と生まれても逆縁あるぞ。
カタキ同士 結ばれることもあるぞ。
それは神の大き恵みぞ。
それに打ち勝って、新しき生命(いのち)うみ出して仕えまつれ。
体験ないところに宗教はない。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第29帖 →超訳

神から出るものは()に決まっているぞ。
この平凡の(みち)の道理が なぜにわからんのじゃ。
得心できんのじゃ。
それに従えばこそ向上、弥栄(いやさか)するのじゃ。
(てん)()だから、慢心するから、理がなくなるから行き詰まるのじゃ。
一応は世界一家のカタできるのじゃ。
が、それではならん。
それを越えて、ねり直してマコトの一家となるのじゃ。
天が上で地が下で、中にゝあるのじゃ。
それがミロクの世じゃ。
気長にやれと申してあろう。
長い苦心なければ良いものできん。
この世ででき終わらねば、
あの世まで持ち続けても やり続けてもよいのじゃ。
そなた達はあまりにも気が短いぞ。
それではならんのう。
マコトの生活は永遠性持っているぞ。
これないものは宗道でないぞ。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第30帖 →超訳

宇宙のすべてがつながりであるぞ。
石でも水でも草でも木でも動物でも すべてがつながりじゃ。
手と足のようなもんじゃ。
拝み合えよ。
親しみ合えよ。
和せよ。
和すと自分となるのじゃぞ。
自分 大きく、明るくなるのじゃ。
豊かにうれしうれしじゃ。
赤いものの中にいると赤くなって行く。
()に向かっていると、いつの間にか神の気いただくぞ。
神の光がいただけるのじゃ。
二度三度、話聞いたり、(おろが)んだりくらいで理はわからん。
神は(わか)らん。
体験せねばならん。
一方的では何事も成就せん。
もちつもたれつであると申してあろう。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第31帖 →超訳

今の自分の環境がどんなであろうと、
それは事実であるぞ。
境遇に不足申すなよ。
現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。
そこにこそ神の光、よろこび現れるのじゃ。
逃げ道つくれば迷いの道に入るぞ。
楽に得たもの、楽に失う。

記:1952年2月1日

 

春の巻〜第32帖 →超訳

信仰の始めは感情に支配されがちじゃ。
理智を強く働かせねばならんぞ。
人間は絶えず(けが)れてくる。
(けが)れは清めることによって、あらたまる。
厄祓(やくばら)いせよ。
福祓(ふくはら)いせよ。
想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。
中の霊は天国へ行っても、
外の霊はこの世に残るぞ。
残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業を繰り返すことあるぞ。
早く洗濯せよと申してあろうがな。
梅の木から梅が()えるのじゃ。
その梅に実できて また梅が()えるのじゃ。
人間も生まれかわっても死にかわっても、
中々に悪い癖は直らんもんじゃぞ。
それを少しずつ直してかからねばならん。
努力次第で(ぜん)()直るのじゃぞ。
宗教は霊、芸術は体ぞ。

記:1952年2月1日

第4帖〜第23帖/第24帖〜第32帖の順番逆転?

 

春の巻〜第33帖 →超訳

新玉(あらたま)の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみがえりけり。

今の科学は科学のことはわかるが、
それより上のことはわからん。
今の科学は「あるものがある」ということだけしかわからんのじゃ。
よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、
よい理解となり、よい生活 生まれる。
間違った求めには間違った神、
間違った生活 生まれるぞ。
道理じゃナァ。
(きゅう)(くつ)であってはならん。
しかつめらしく固くなっていてはならんぞ。
笑いの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのじゃ。
宿命は宿されたもの。
一つのワクに入っているのであるぞ。
運命は自分で切りひらくことできるぞ。
(みが)(みが)け、ミタマ(みが)き結構。
信念だけでは行き詰まるぞ。

記:1952年2月4日

 

春の巻〜第34帖 →超訳

自分は自分の意志で生まれたのではないのじゃ。
その時、その環境を無視できん。
その法則に従わねばならん。
草を拝めば草が神となり、
機械拝めば機械が神じゃ。
食物拝めば食物が神となる。
心せよ。
神は人民を根本から永遠の意味で良くしようと、
マコトの喜び与えようとしているのじゃ。
局部的、瞬間的に見てわからんこと多いぞ。
おかげはすぐにはないものと思え。
すぐのおかげは下級霊。
(まゆ)(つば)せよ、考えよ。
現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。
それに感謝せよ。
積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。
(まこと)の真理を知らぬ人間に神はわからん。

記:1952年2月4日

 

春の巻〜第35帖 →超訳

念じつつやれ。
神のためと念じつつやれば神のためとなる。
小さい行為でも霊的には大きはたらきするのじゃ。
自分と言うことが強くなるから発展ないのじゃ。
行き止まるのじゃ。我よしとなるのじゃ。
調和が神の現れであるぞ。
霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。
食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。
うれしうれしぞ。
一生かかってもよいぞ。遅くないのじゃ。
自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。
悪い(くせ)直さねばならん。
これが第一歩、土台じゃぞよ。

よきことは 人にゆずりて 人をほめ 人たてるこそ人の人なる。

敬愛の まこと心に まことのり まこと(おこな)う 人ぞ人なる。

記:1952年2月4日

 

春の巻〜第36帖 →超訳

何事に向かっても先ず感謝せよ。
ありがたいと思え。
始めはマネゴごとでもよいぞ。
結構と思え。
幸いと思え。
そこに神の力 加わるぞ。
道は感謝からぞ。
不足申せば不足うつるぞ。
心のままとくどう申してあろうが。
病気でないと思え。
弥栄(いやさか)と思え。
(やまい)治るモト生まれるぞ。
キがもとぞ。
何事くるとも何クソと思え。
神の力 加わるぞ。
恐れは恐れ生むぞと申してあろうが。
一聞いて十悟らねばならんぞ。
今の人民には何事も平面的に説かねばわからんし、
平面的では立体のこと、次元の違うことはわからんし、
ハラで悟りて下されよと申してあろう。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第37帖 →超訳

相手八と出たら二と受けよ。
人民と申す者はモノに(とら)われるから何事もわからんから、
十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとしてわからんことになるぞ。
十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。
また十二と受ける手もあるぞ。
二十と出たら八十と和せよ。
立体になれば それだけ自由になるのだ。
世界広くなるのぞ。
早う立体さとりくれよ。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第38帖 →超訳

●の次に✺があり、その次に✳があり、+あると申してあろう。
立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。
 ×と÷と和せば✳となるぞ。複立体であるぞ。
✺が複々立体、●が立立体ぞ。
 ゝ◯がその元であるぞ。
わかりたか。
 ゝ◯となれば超自由、超自在、超無限ぞ。
それだけにまた超完成であるぞ。
超未完成でもあるぞ。
神は全智全能から超全智全能に弥栄(いやさか)しているぞ。
難しいようなれど、このことよくわかって下されよ。
新しき段階に入る門ぞ。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第39帖 →超訳

道は三つと申してあろう。
三とは参であるぞ。
3(スリー)でないぞと申してあろう。
無限であるぞ。
平面的に申せば右と左とだけでないぞ。
その右の外に、また左の外に道でなき道あるぞ。
それを善の外道、悪の外道と申す。
外道多いのう。
中の中には中の道あるぞ。
中の中のゝは無であるから動きないぞ。
動きないから無限の動きじゃ。
そのゝの外の中は人民にも動き見ゆるぞ。
この道は中ゆく道だと申してあろうが、
中のゝの道は太神の道、中行く道が神の道、
中の道が人の道じゃ。
わかりたか。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第40帖 →超訳

思想と申すのは広い意味で、
太神(おおかみ)から出ているのではあるが、
幽界からの力が強く加わっているのじゃ。
ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。
悪の気、断たねばネンとはならんぞ。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第41帖 →超訳

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。
同じ道であるが違うのぞ。
地にうつし、人民にうつす時には、地の約束、人民の約束に従うのぞ。
約束は神でも(やぶ)れんのであるぞ。
次元違うのであるから違って来るぞ。
違うのが真実であるぞ。
それを同じに説いたのが悪の教え。
同じと思うのが悪の考え方であるぞ。
上から来るものは光となって流れて来るのだ。
光に本来影はないのであるが、動くから影が生まれる。
それを影でない影と申すぞ。
悪でない悪あると申してあろうがな。
天には天の自由、地には地の自由、
神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。
その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由あるぞ。
自由あればこそ動くぞ。
自由とは弥栄(いやさか)のこと。
光は神から人民に与えられている。
光に向かうから照らされる。
光はゝ、真、善、美、愛となり、
またそのうらの◯、疑、悪、醜、憎となり現れるぞ。
御用の善となり、御用の悪となる。
(にく)むは外道の善。
外道とは上からの光が一度人民界にうつり、
人民界の自由の範囲に於ける凹凸にうつり、
それが再び霊界にうつる。
それが幽界と申してあろう。
その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのだ。
善にも外道あるぞ。
心得よ。
光は天のみでなく、地からも人民からも、
すべて生命(いのち)あるものから出ているのであるが、
その喜びの度に正比例してのものであるから、
小さい生命(いのち)からの光はわからんのであるぞ。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第42帖 →超訳

(いくさ)は善にもあり、悪にもあり、
右には右の、左には左の、上には上の、
下には下の、中には中の、外には外の(いくさ)あるぞ。
新しき御代が到来しても(いくさ)はなくならん。
(いくさ)も歩みぞ。
弥栄(いやさか)ぞ。
じゃと申して今のような外道の(いくさ)でないぞ。
人殺し、生命(いのち)殺すような(いくさ)は外道。
やればやるほど激しくなるぞ。
正道の(いくさ)は人を生かす(いくさ)、やればやるほど進むのじゃ
今の人民(いくさ)と申せば、人の殺し合いと早合点するが、
それは外道の(いくさ)
天国への(いくさ)もあるぞ。
幽界への(いくさ)もあるぞ。
人民のいう今の(いくさ)、今の武器は、人殺す外道の道、
それではならんのう。
外道なくして下されよ。
外道はないのであるから、外道抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。
新しき霊界は神人(かみひと)共でつくり出されるのだ。
それは大いなる喜びであるからぞ。
神のみ(むね)であるからぞ。
新しき世はあけているぞ。
夜明ければヤミはなくなるぞ。
新しきカタはこの中からぞ。
日本からぞ。
日本良くならねば世界は良くならん。
外道の武器捨てよ。
外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄(いやさか)の武器とせよ。
変えられるでないか。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第43帖 →超訳

与えよ、与えよ、与えよ、
与える政治と申してあろうが。
戦争か平和かと人民申しているなれど、
道はその二つでないぞ。
三が道と、くどう申してあろう。
水の外道の武器と火の外道の武器の他に、
新しき武器気づかんのか。
神示(ふで)よく読めば示してあるのであるぞ。
ほかに道ないと決めてかかるからわからんのだ。
生まれ(あか)()になればわかるぞ。
知らせてやりたいなれど、
知らせてわかるのでは自分のものとならん。
自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。
つけ焼き刃は危ない、危ない。
()(ちが)いに刃物ぞ。
平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。
神人共にとけ合うことぞ。
外道でない善と悪ととけ合うのぞ。
善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。
外道は夜明け来れば消えてしまうぞ。
夜明けの御用大切と申してあろうが。
外道の悪 殺すでないぞ。
抱き参らすから消えるのであるぞ。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第44帖 →超訳

念入れかえるぞ。
念入れかえるとは、新しき霊界つくることぞ。
新しき霊界つくるとは、
太神の真ん中にとけ入ることぞ。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第45帖 →超訳

一時は人民なくなるところまで行くと申してあろうが。
人民なくしても人民なくならん。
洗濯して掃除して、新しき道 早う進めよ。
遅くなるほど難しく苦しくなるぞ。
近目で見るからわからん。
日本の世界あけたり。
あな爽々(すがすが)し、日本晴れぞ。
二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。
天のこと地にうつす時は、地の力出るように、地の息吹(いぶ)き通うように、
弥栄(いやさか)するように、念を地の力と現れるように、
正しくうつして下されよ。
邪気入ってはならん。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第46帖 →超訳

今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。
神界の裏打ちある武器でなくてはならん。
まことの武器ぞ。
ヒックリであるぞ。
念からつくり出せよ。
その念のもとをつくれば、神から力を与えるから、
この世の力と現れるぞ。
念の凸凹から出た幽界を抱き参らせねばならんのだ。
中々の御苦労であるなれど、
幽界を神界の一部に、力にまで引き寄せねばならん。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第47帖 →超訳

念が新しき武器であるぞ。
それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど、
ものごとは順と時あるぞ。
もとのキから改めて下されよ。
尊き御役。

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第48帖 →超訳

念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。
思想は思想ぞ。
念とは力であるぞ。
実在であるぞ。
喜びであるぞ。
喜びは神ぞ。
弥栄(いやさか)

記:1952年2月12日

 

春の巻〜第49帖 →超訳

これぞと思う人があったら、その(みち)の人についてござれよ。
一寸先見えん人民じゃ。
先達(せんだつ)の後からついてござれ。
それが一番良いことじゃ。
人、見い出すこと難しいのう。
十年、二十年(ぎょう)じても、目あて違っていたら何にもならんぞ。
このほうの道へござれ。
正しき光の道に寄れよ。
十日で、一月で見違えるほどになるぞ。
死んだ気で神示(ふで)をそなたの身にうつせよ。
涙流せよ。汗流せ。血流せよ。
天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。
部分的に人間苦しめるように思ってはならん。
一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。
人間、この世の五十年をもととして考えるから わからなくなるのぞ。
永遠弥栄(いやさか)生命(いのち)、早う体得結構。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第50帖 →超訳

その人によってふさわしい(ぎょう)がある。
誰でも同じでない。
一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。
身につかん(ぎょう)は、いくらしても何もならん。
いらん苦労はいらんと申してあろう。
風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人少ないぞ。
より高い聖所へ参りて魂のアカ落とせよ。
神示(ふで)読んで落として下されよ。
アカ落とさずに神の光見えんと申して、
おかげないと、我よし申してござるなれど、
風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。
なぜにわからんのじゃ。
全体の為 奉仕するはよいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。
全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄(いやさか)えるのであるぞ。
早合点禁物。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第51帖 →超訳

人民の因縁 性来はみな神示(ふで)に書かせてあるぞ。
そなたのこと何もかも一目じゃ。
因縁わかってうれしうれしで御用結構。
うれしおそろしくなる仕組み。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第52帖 →超訳

まことの光の道に行き、進めよ。
ここぞと見極めたら、
理解に向かってひたすら進まねばならん。
理屈いらん。
宇宙はこの方の中にあるのじゃ。
このほうじゃ。
世が段々せまって悪くなるように申しているが、それは局部的のこと。
大局から見れば、よきに向かって弥栄(いやさか)ているぞ。
夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。
秋になるぞ。冬もあるぞ。
冬ばかりと考えるでないぞ。
やがては春が訪れるのじゃ。
いずれも(うれ)(うれ)しとなる仕組み。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第53帖 →超訳

どうしたらよいのじゃ、神の言うこと聞くから助けてくれ
と申す者たくさん出て来るが、
何も難しいこと神は申さん。
現在を足場として一歩ずつ進めば良いのじゃ。
それでは食って行けんと申す者あるが、
神はあり余るほど与えてあるでないか。
なぜ、手を出さんのじゃ。
与えたもののみが自分のものぞ。
今の人民、余っても足らんと考えて、
(むさぼ)りているぞ。
幸福与えてあるのに なぜ手を出さんのじゃ。
曲げて取るのじゃ。
心の目ひらけよ。
ゴモク投げ出せよ。
()の強い守護神殿、もう()の世は済んだぞ。
()出すほど苦しくなるのじゃ。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第54帖 →超訳

見える幸福には限りがあり、見えぬ幸福は永遠であるぞ。
(みち)にいそしめ。
理にとけ入れよ。
モノは無くなるぞ。
霊は永遠に弥栄(いやさか)えるぞ。
毎日毎日掃除してもホコリはたまる。
絶えず心の掃除よいか。洗濯よいか。
目に見えず上、下、左、右、前、後から何となく迫って来るものを審神者(さにわ)せよ。
審神者(さにわ)して受け入れねばならん。
自分の魂をはぐくみ、生長させてくれる大切なものは
目に見えんところから流れて来るぞ。
和せよ。調和せよ。
調和とは上から、より清いところから流れて来るものに従うことぞ。
いよいよが一四一四となるぞ。
雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒れの神、大地震の神。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第55帖 →超訳

十二年遅れているのを取り戻すのであるから、
これからは目の回るほど(せわ)しくなって来るぞ。
神示(ふで)読む暇もなくなると申してある時来たぞ。
いずれは人民減るなれど、何も約束ごと真理とはかえられん。
まこと求めるならば、これと見届けたならば、
その場で御用与える仕組み。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第56帖 →超訳

行く水にも雲にも咲く花にも神の()(こころ)あるぞ。
それ見る目ないからわからんのじゃ。
掃除すればわかる。
掃除結構。
拝むは拝まんよりましであるぞ。
しかし拝んでばかりでは病気は治らん。
金は(もう)からん。
拝むばかりで金(もう)けできたり病気治ったりすると思ったら間違いぞ。
(みち)にいそしめ。
(みち)ゆくところ喜びあるぞ。
喜びあるから病気も治るのじゃ。
金も出てくるのじゃ。
おかげあるのじゃ。
喜び神じゃ。
タテには神と神界と和し、
ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、
生きの生命(いのち)のウレシウレシあるのであるぞ。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第57帖 →超訳

後にも先にもない、みせしめ出てくるぞ。
めぐりひどいところほど、ひどい見せしめ。
神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。
自分でびっくり。
まことの人ほどおかげ遅い。
遅いほど大きおかげあるぞ。
同じ筋のミタマたくさんにあるのじゃ。
類魂(るいこん)と人民申しているもの。
いくら因縁あっても曇りひどいと、
その類魂(るいこん)の中から次々に代わりのミタマ使う仕組み。
とやかく申さずに素直についてござれ。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第58帖 →超訳

   心の洗濯 早う致して太ゝ◯〃◯+◯(オオヒツキ)太神様に、
ことに育ての、生みの親さま 九二十九十千(クニトコタチ)の大神様の
御実体を理解せねば、
自分でいくら頑張っても やりそこないじゃ。
(われ)(われ)がと思っているなれど、
皆このほうが影からさせているのに気づかんのか。
「お()びせよ」と申せば、そんな悪いことした覚えないと申すが、
どこまで曇ったのじゃ。
神に(ささ)げるには、
自分に与えられたものの中から(ささ)げねばならんぞ。
むさぼり取ったり横取りしたり、
自分のものでないもの、
(もう)けたカスを神に(ささ)げて威張(いば)っているが、
それは(ささ)げ物にならん。
神は受け(たま)わらんぞ。
泥棒のお残りちょうだいは真っ平じゃ。
自分のものまず(ささ)げるから弥栄(いやさか)えるのぞ。
おかげ万倍間違いなし。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第59帖 →超訳

一足飛びには行かん。一歩一歩と申してあろう。
一度に神様を知りたいと申しても そうは行かん。
一年生からじゃ。出直し出直し。
子供に大学のことはわからん。
(かん)の荷物は(かつ)げん道理。
進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。
胡坐(あぐら)かいて、(ふところ)()していてはできん。
時もいるぞ。
金もいるぞ。
汗もいるぞ。
血もいるぞ。
涙もいるぞ。
良いものほど値が高い。
今を元として自分を元として善じゃ悪じゃと申してはならん。
よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。
神も仏もないのじゃと申しているが、
それは人民の近目ぞ。
一方的の見方ぞ。
長い目で見よと申してあろうが。
永遠の(ことわり) わきまえよと申してあろうが。
支払窓は金くれるところ、預け口は金取るところ。
同じ銀行でも部分的には、(さか)さのことしているでないか。
全体と永遠を見ねば ものごとわからんぞ。
よく心得よ。

記:1952年2月15日

 

春の巻〜第60帖 →超訳

一九(ヒク)(ミチ)九◯(コト)
一九(ヒク)(ミチ)九◯(コト)
一九(ヒク)(ミチ)
四九(ジク)(ミチ)
四九(ジク)(ミチ)

記:1952年2月15日