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    夏の巻(全文)

 

夏の巻〜第1帖 →超訳

与えられたもの、そのもの喜ぶようにすれば楽に行けるよう、
暮らし向きも楽し楽しで暮らせるようになっているぞ。
あり余るほど与えてあるでないか。
生かして使えよ。
生活になぜアクセクするのじゃ。
与えてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのじゃ。
有限でなければモノは(あら)われないぞ。
モノに(あら)わすと有限となるのじゃ。
すべてに感謝せよと申してあろうが。
すべてのものに、それ相当の意義あるぞ。
全体的には喜びせねばならん。
愛をもって接しなければならん。
信をおかねばならん。
じゃと申して局部局部に於いては、
それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。
ただその場合は、ゆとりをもって処理せよ。
綱長くしておかねばならん。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第2帖 →超訳

ゝがよろこびであるぞ。
またゝのゝはムでもあるぞ。
 内から外に向かって行くのがゝ◯のやり方、
外から内に向かって行くのが「がいこく」のやり方。
◯からゝに行くのは、
マコトの逆であるからマコトのことはわからん。
外から行く宗教や哲学や科学が元をわからなくしているのじゃ。
元わからんで生きの生命(いのち)のわかるはずないぞ。
今の世は逆さまじゃ。
先祖から正せよ。
原因から正して行かなならんぞ。
 ゝ◯から出てゝにかえり、
無限より出て有限に形し、
有限から無限にかえり、
また有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。
マコトの理解者には甘露の水ぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第3帖 →超訳

人間は神と共に自分自身で生長して行かなならん。
人間から見れば全智全能の神あるのであるぞ。
このことよくわかって下されよ。
マコトの理解と迷信との別れる大切ことぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第4帖 →超訳

何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。
ただぼんやり神様と言っただけではならん。
大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。
   根本の、太ゝ◯〃◯+◯(オオヒツキ)大神様と念じ、
その時その所に応じて、特に何々の神様とお願い申せよ。
信じ合うものあれば、病気もまた楽しく、
貧苦もまた楽しいのであるぞ。
例外と申すのは、ないのであるぞ。
他の世界、他の天体、他の小宇宙からの影響によって
起こる事象が例外と見えるのぢゃ。
心大きく、目ひらけよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第5帖 →超訳

なりなると申してあろうが
なると申すのは内分は同じであるが、
形の変わることであるぞ。
ウムとナルとは同じであって同じでないぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第6帖 →超訳

ほんとうにモノを見、聞き、味わい、消化して行かなならんぞ。
地の上にあるもの、人間のすること、
そのすべては霊界で同じことになっていると申してあろうが。
まず霊の世界の動き大切。
霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。
これでは片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。
そのものを見、そのものに接して下肚がグッと力こもって来るものは
良いもの、本物であるぞ。
キはすべてのものに流れ込むもの。
信仰は理智的にも求められる、(まった)き情である。
真理を理解するのが早道。
確信となるぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第7帖 →超訳

神も人間も同じであると申してあろう。
同じであるが違うと申してあろう。
それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。
自分の中に自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。
大神弥栄(いやさか)なれば、神も弥栄(いやさか)、神弥栄(いやさか)なれば人民弥栄(いやさか)ぞ。
困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか言うことないのであるぞ。
(みち)踏めと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。
人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。
神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第8帖 →超訳

見えるものから来る幸福には限りがあるが、見えんものから来る幸福は無限ぞ。
尽きん喜びは常に神から。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第9帖 →超訳

ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。
一つ生めば自分は一段と上に昇る。
この道理わかるであろうがな。
産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。
毎日、一生懸命に掃除していても、どこかにホコリ残るもんじゃ。
まして掃除せん心にホコリ積もっていること位、誰にでもわかっているであろうが。
神示(ふで)で掃除せよ。
大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、霊的大病は知らん顔でよいのか。
信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。
奇跡的に治るとみるのは間違い。迷信ぞ。
時間も要り手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。
取り違い多いのう。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第10帖 →超訳

過去も未来も中今(なかいま)
神も人間と同じで、弥栄(いやさか)して行くぞ。
悪いくせ直さねば いつまで()っても自分に迫って来るもの変わらんぞ。
おかげないと不足申しているが、
悪いくせ、悪い内分を変えねば百年祈り続けてもおかげないぞ。
理屈なしに子は親を信ずるぞ。
その心で神に対せよ。
神が親となるのじゃ。
目と口から出るもの、目の光と声とは、
実在界にも実力もっているのであるぞ。
力は体験通して出るのであるぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第11帖 →超訳

カタは形をもたねばならん。
念は語ることによって現れるのじゃ。
ゝが無なればなるほど◯は有となるのであるぞ。
このことよくわかって下されよ。
(はら)の中のゴモク捨てるとよくわかる。

記:1952年3月3日

ゴモク=心の中の間違った常識や身勝手な考え

 

夏の巻〜第12帖 →超訳

キが元と申してあろうがな。
人民はすべてのもののキいただいて成長しているのであるぞ。
キ頂けよ。
横には社会のキを、縦には神の気を、悪いキを吐き出せよ。
よい気 養って行けよ。
【見分ける鏡与えてある】でないか。
道わからねば人に聞くであろうが。
わからんのにわかった顔して歩き廻っていてはならん。
人に尋ねよ。
これと信じる人に尋ねよ。
天地に尋ねよ。
神示(ふで)に尋ねよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第13帖 →超訳

ウとムは相互いに相反するのであるが、
これが一つになって動く。
ウム組み組みてと、申してあろうがな。
今の人民の智では中々解けん。
ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。
中心は無限、周辺は有限であること知れよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第14帖 →超訳

上に立つほど働かねばならん。
働いても(ちから)は減らん。
働くにはキ頂かねばならん。
キから(ちから)生まれるのであるぞ。
働くと申して動くばかりでないぞ。
動かんのも働き、動くのも働き、よく心得よ。
寄せては返し、寄せては返し生きているのであるぞ。
始めの始めと始めが違うぞ。
後になるほど良くなるぞ。
終わりの中に始めあるぞ。
祈り、考え、働きの三つそろわねばならん。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第15帖 →超訳

生めば生むほど、自分新しくなり成り、大きくなる。
人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものが そのままカタとして現れ居て、
弥栄(いやさか)えている道理じゃ。
人間のすべてに迫り来るもの、すべてを喜びとせよ。
努力せよ。
モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。
心の世界は無限に(ひろ)がり、生長するのであるぞ。
神にとけ入って宇宙大に(ひろ)がるのであるぞ。
神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。
一神説いて多神説かんのも(かた)()
多神説いて一神説かんのも(かた)()
一神則多神則汎神(はんしん)である事実を説いて聞かせよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第16帖 →超訳

人民は神の()れ物と申してあろう。
神のゝと人間のゝと通じておればこそ呼吸するのじゃ。
ゝとゝと通じておればそれでよいのじゃ。
神のゝと人民のゝと通じておるならば、
神の◯と人民の◯と同じようにしておかねばならんと申すのは、
人間の誤りやすい、いつも間違い起こす元であるぞ。
神の◯と人間の◯と同じようにしておくと思って、
三千年の誤りしでかしたのじゃ。
ゝとゝと結んでおけば(あと)は自由じゃ。
人民には人民の自由あるぞ。
神のやり方と自ら違うところあってよいのじゃ。
天の理と人の理とは同じであって違うのだと知らせてあろう。
心得よ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第17帖 →超訳

神の姿はすべてのものに現れているぞ。
道ばたの花の白きにも現れているぞ。
それを一度に、すべてを見せて、
呑み込ませてくれと申してもわかりはせんぞ。
わかるところから気長に神求めよ。
すべては神から流れ出ているのであるから、
神にお願いして実行しなければならん。
このわかり切った道理、おろそかにしてござるぞ。
そこに(てん)()出ているのぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第18帖 →超訳

自分が自分生むのであるぞ。
陰と陽とに分かれ、更に分かれると見るのは、
人間の住む次元に引き下げての見方であるぞ。
陰陽分かれるのでないこと、
元の元の、元の(まこと)弥栄(いやさか)知れよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第19帖 →超訳

その人その人によって、食べ物や食べ方が少しずつ違う。
身体(からだ)に合わんもの食べても何もならん。
かえって毒となるぞ。
薬、毒となることあると気つけてあろうが。
ただ歩きまわっているだけではならん。
ちゃんと目当てつくって、よい道 進んで下されよ。
飛行機あるのに馬に乗って行くでないぞ。
(ひたい)にまず気集めて、ハラで物事を処理せねばならんぞ。
形ある世界では形の信仰もあるぞ。
偶像崇拝じゃと一方的に(へん)してはマコトはわからんぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第20帖 →超訳

人民の智の中に現れてくる時は、もはや大神ではないぞ。
神であるぞ。
原因の原因は中々見当とれん。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第21帖 →超訳

始めは形あるものを対象として拝むのもよいが、
行き詰まるのは目に見える世界のみに(とら)われているからぞ。
タテのつながりを見ないからであるぞ。
死んでも自分は生きているのであるぞ。
大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分というもの無くなるのでないぞ。
霊界と霊と、現界と(うつし)()とのことはくどう説いてあろうが。
神示(ふで)読め読め。
大往生の(みち)弥栄(いやさか)に体得できるのであるぞ。
霊と体と同じであると申しても、
人間の世界では別々であるぞ。
内と外、上と下であるぞ。
取り違いせんようにして下されよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第22帖 →超訳

つくり主とつくられるものとでは無限に離れて行くのじゃ。
和ないぞ。
和のないところ天国ないぞ。
こんなわかりきったこと、なぜにわからんのじゃ。
尻の毛まで抜かれていると申してあろう。
早う目覚めよ。
悪の道、教えにまだ迷ってござるが、
早う目覚めんと間に合わんぞ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第23帖 →超訳

無限のものと、有限のものと、
ムとウとを混ぜ混ぜにして考えるから、
人民の頭はとかくウになりがちじゃぞ。
(よく)、浄化せよ。

 

夏の巻〜第24帖 →超訳

すべて世の中のできごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。
意義ないものは存在ゆるされん。
それを人間心で、(じゃ)と見、悪と感じるから、
狭い低い立場でいるから、いつまで()ってもドウドウめぐり。
それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、
考え方や、処理方法や、いろいろの運び方によって知るのであるから、
心せねばならんぞ。
「今」に一生懸命になって下されよ。

記:1952年3月3日

 

夏の巻〜第25帖 →超訳

二十二のように知らせるぞ。
神の仕組み間違いなし。
どしどしと運べよ。

記:1952年3月8日