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    秋の巻(全文)

 

秋の巻〜第1帖 →超訳

同じ神の子でも本家と分家あるぞ。
本家は人間じゃ。
分家は動植物じゃ。
本家と分家は神の前では同じであるが、
位置を代えると同じでないぞ。
三十年で世の建て替え致すぞ。
これからは一日増しに世界から出て来るから、
いかに強情な人民でも往生致すぞ。
神は喜びであるから、
人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教えているが、
それは段階の低い教えであるぞ。
大道でないぞ。
理屈の作り出した神であるぞ。
大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。
今までの教えは今までの教え。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第2帖 →超訳

人民は土でつくったと申せば、
すべてを土でこねてつくり上げたものと思うから、
神と人民とに分かれて他人行儀になるのぞ。
神の喜びで土をつくり、
それを肉体のカタとし、
神の歓喜を魂としてそれにうつして、
神の中に人民をイキさせているのであるぞ。
取り違いせんように致してくれよ。
親と子と申してあろう。
木の(また)や土から生まれたのではマコトの親子ではないぞ。
世界の九分九分九厘であるぞ。
あるにあられん、さしも押しもできんことが いよいよ近くなったぞ。
外は外にあり、内は内にあり、
外は内を悪と見、内は外を悪として考えるのであるが、
それは善と悪でないぞ。
内と外であるぞ。
外には外の喜び、内には内の喜びあるぞ。
二つが和して一となるぞ。
一が始めぞ、元ぞ。
和して動き、動いて和せよ。
悪を悪と見るのが悪。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第3帖 →超訳

霊界での現れは同じであっても、
現実界に現れる時は違うことあるぞ。
それはモノが異なるからぞ。
二二はもとのキぞ。
ナルトとはその現れのはたらき。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第4帖 →超訳

道徳、倫理、法律はいずれも人民の作ったもの。
本質的には生まれ出た神の息吹(いぶ)きによらねばならん。
神も世界も人民もいずれも生長しつつあるのだ。
いつまでも同じであってはならん。
三千年一切りじゃ。
今までの考え方を変えよと申してあろう。
道徳を向上させよ。
倫理を新しくせよ。
法律を少なくせよ。
いずれも一段ずつ上げねばならん。
今までのやり方、間違っていたことわかったであろう。
一足飛びには行かんなれど、一歩一歩上って行かなならんぞ。
じゃと申して土台を捨ててはならん。
土台の上に建物建てるのじゃ。
空中楼閣(ろうかく) 見ておれん。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第5帖 →超訳

(へそ)の緒はつながっているのであるから、
一段奥の(へそ)(へそ)へと進んで行けば、
そこに新しき広い世界、大きく開けるのであるぞ。
自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。
無我でないぞ。
わかったか。
海の底にはキンはいくらでもあるぞ。
幽界と霊線つなぐと自己愛となり、
天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。
喜びも二つあるぞ。三つあるぞ。
大歓喜は一つなれど、
次の段階では二つとなるのであるぞ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第6帖 →超訳

他を愛するは真愛ぞ。
己のみ愛するのは自己愛ぞ。
自己愛を排してはならん。
自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。
そこに新しき(みち)ひらけるのであるぞ。
自己愛を悪魔と説くは悪魔ぞ。
無き悪魔作り、生み出すでないぞ。
一段昇らねばわからん。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第7帖 →超訳

(おおやけ)のことに働くことが己のために働くこと。
大の動き()すために小の動きを()し、
小の動き()すために個の動き()すのであるぞ。
ゝにゝあり、またゝあると申してあるぞ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第8帖 →超訳

何事も喜びからぞ。
結果からまた喜び生まれるぞ。
この道理わかれば何事もありやか。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第9帖 →超訳

みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、
独自のものとなるのであるぞ。
じゃが皆それぞれの国は一つの(へそ)で、
大き一つの(へそ)につながっているのであるぞ。
地上天国は一国であり、一家であるが、
それぞれのまた自ずから異なる小天国ができ、
民族の独立性もあるぞ。
一色に塗りつぶすような一家となると思っているが、
人間の浅はかな考え方ぞ。
考え違いぞ。
この根本を直さねばならん。
霊界の通りになるのじゃ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第10帖 →超訳

外の喜びはその喜びによって悪を増し、
内の喜びはその喜びによって善を増すなれど、
マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、
三つになった喜びとならねば、弥栄(いやさか)ないぞ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第11帖 →超訳

親と子は、生むと生まれるとの相違できて来るぞ。
また上の子と下の子と、左の子と右の子とは違うのであるぞ。
違えばこそ存在する。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第12帖 →超訳

神についてござれよ。
理屈申さず、ついてござれよ。
地獄ないと申してあろう。
人は神の喜びの子と申してあろう。
人の本性は神であるぞ。
神なればこそ天国へ(おの)ずから行くのじゃ。
住むのじゃ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第13帖 →超訳

人民、ウソが上手になったから中々油断ならんぞ。
下々の神様も、ウソ上手になったなぁ。
善じゃ悪じゃと申しているが、
人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。
そのまま霊人の悪でないぞ。
心してくれ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第14帖 →超訳

グッと()めたり、(ゆる)めたりして呼吸しなければならん。
そこに政治の動きあるぞ。
経済の根本あるぞ。
逆に()めることもあるぞ。
善と申し悪の御用と申すことの動き、そこから出るのじゃ。
じっとしていてはならん。
ジッとしている善は善ではないぞ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第15帖 →超訳

何ほど世界のためじゃ、人類のためじゃと申しても、
その心が、()が強いから、一方しか見えんから、
世界のためにならん。
人類のためにならんぞ。
洗濯じゃ洗濯じゃ。
自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、
いくら他に与えてもなくならんぞ。
与えよ、与えよ、与えてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。
なくなると思うのは形のみ見ているからじゃ。
カラのみ見るからじゃぞ。
本質は無限に拡がるぞ。
与えるほどより良く、神から与えられるぞ。
井戸の水のようなものじゃ。
()めば汲むほど良くなる仕組み。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第16帖 →超訳

統一ということは赤とか白とか一色にすることではないぞ。
赤もあれば黄もあり青もあるぞ。
それぞれのものは皆それぞれであって一点のゝでくくるところに統一あるぞ。
くくると申して(しば)るのでないぞ。
磁石が北に向くよう、
すべて一点に向かうことであるぞ。
これを公平と申し、平等と申すのじゃ。
悪平等は悪平等。
一色であってはならんのう。
下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。
幾度も幾度も上下に引っ繰り返り、また引っ繰り返りビックリじゃ。
ビックリこね廻しじゃ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第17帖 →超訳

神示(ふで)が一度でわかる人民にはミタマシズメやカミシズメやカミカカリはいらん。
わからんからやらしているのじゃ。
やらせねばわからんし、やらすと脇道(わきみち)(おちい)るし、
いやはや困ったもんじゃのう。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第18帖 →超訳

人民は神の(へそ)とつながっているのであるぞ。
(へそ)()さえつながっておればよく、神人であるぞ。
ゝとゝとつながって更に大きゝにつながっているからこそ動きあり、
それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。
同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。
早う心入れ替えと申してあるが、心とは外の心であるぞ。
心の中の中の中の心の中にはゝが植えつけてあるなれど、
外が真っ暗じゃ。
今までのやり方では行けんことわかっておろうがな。
いらんものは早う捨ててしまえよ。
直々の大神様は(つぎ)の大神様なり。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第19帖 →超訳

中今(なかいま)と申すことは、ゝ今と申すこと。
ゝは無であるぞ。
動きなき動きであるぞ。
そのことよくわきまえよ。
今までのこと、やり方変えねばならん。
一段も二段も三段も上の広い深い、
ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、
規則のない世に、考え方、やり方、結構であるぞ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第20帖 →超訳

科学にゝ入れると宗教となるのじゃ。
ゝは数。
カネは掘り出せん。
生み出してくれよ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第21帖 →超訳

和が根本、和が喜びぞ。
和すには神を通じて和すのであるぞ。
神を通さずに、神をなくして通じるのが悪和合。
神から分かれたのであるから神に帰って、
神の心に戻って和さねばならん道理。
神なくして和ないぞ。
世界平和と申しているが、
神に返って、神に通じねば和平なく、喜びないぞ。
十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第22帖 →超訳

神にとけ入れと申してあろう。
次元が違うから、戒律できるからわからんのじゃ。
解け入れよ。
何につけても大(いくさ)
人の殺し合いばかりでないと知らせてあろう。
ビックリじゃ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第23帖 →超訳

神が主であり人民が従であると申してあろう。
これを逆にしたから世が乱れているのぞ。
結果あって原因あるのでないぞ。
今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れているぞ。
いよいよとなって泣き(つら)せねばならんことわかっているから、
くどう気つけているのじゃ。
マコトのことはトリの年。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第24帖 →超訳

上から見ると皆人民じゃ。
下から見ると皆神じゃ。
わかったと思ってござるなれど、
神の経綸(しくみ)が学や、金銀積んで、
チョットやソットでわかるはずないぞや。
今までの、三千年のやり方違っていたと心つくなれば、
心ついて神示(ふで)読むなれば、
一切のことありやかとなるのじゃ。
カンジンじゃ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第25帖 →超訳

ウはムであるぞ。
ウとは現実界ぞ。
ムとは霊界であるぞ。
ウもムも同じであるぞ。
ムからウ生まれて来ると申してあること、よく心得よ。
神の仕組み、狂いないなれど、
人民にわからねば、それだけこの世の歩み遅れるのじゃ。
この世は人民と手引かねばならんから、
苦しみが長くなるから、
千人万人なら一人づつ手引いてやっても やりやすいなれど、
世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組みであるから、
人民 早う改心せねば、気の毒いよいよとなるぞ、

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第26帖 →超訳

中は無、外は有であるぞ。
中になるほど無の無となるのじゃ。
同じことくり返すと、人民申すであろうが、
得心しておらんから、肝心のことじゃから、
クドう申しているのじゃ。
人民それぞれのミタマによって役目違うのであるぞ。
手は手、足は足と申してあろう。
何もかもマゼコゼにやるから結びつかんのじゃ。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第27帖 →超訳

型にはまることをカタマルと申すのじゃ。
こり固まっては動き取れん。
固まらねば型できんで、
人民にはわからんし、型外して、型を作らねばならん。
法律作らねばならんが、作ってもならんぞ。
神から命令されたミタマでも油断はできん。
曇ったらすぐ代りのミタマと入れ替えるのであるぞ。
コリ固まったものがケガレぢゃ。
ケガレはらさねばならん。
絶えず払って払って払いつつ、また固まらねばならんし、
人民にはわからんし、肉体あるから固まらねばならんし、
常に払いせねばならん。
すべてをこんなもんじゃと決めてはならんぞ。
ゝ枯れることをケガレと申すのじゃ。
わかったか。
神界の建て替えばかりでは建て替えできん。
人民界の建て替えなかなかじゃナア。

記:1952年4月11日

 

秋の巻〜第28帖 →超訳

霊はモノつくと申してあろう。
(はら)いする時はモノにつけて、モノと共にせよ。
共に(はら)えよ。
これほどマコト申しても、
残る一厘はいよいよギリギリでないと申さんから、
疑うのも無理ないなれど、
見てござれよ。
神の仕組み見事成就致すぞ。
一厘のことは知らされんぞと申してあろう。
申すと仕組み成就せんなり。
知らせないので、改心遅れるなり、
心の心で取って下されよ。
肉体は霊の(ころも)と申してあろう。
(ころも)が霊を自由にしてはならんぞ。
(ころも)には(ころも)の約束あるぞ。
(ころも)じゃと申して粗末にしてはならん。
いずれも神の現れであるぞ。
内には内の内があり、外には外の外があるぞ。
人ほめよ。
人ほめることは(おのれ)ほめることぞ。
この巻、秋の巻。

記:1952年4月11日