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    冬の巻(全文)

 

冬の巻〜第1帖 →超訳

宇宙は霊の霊と物質とからなっているぞ。
人間もまた同様であるぞ。
宇宙にあるものは皆人間にもあり。
人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。
人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあろう。
人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。
霊界を感知するために超五官器あるぞ。
神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。
この点誤るなよ。
霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。
幽界的自分が副守護神ぢゃ。
本守護神は大神の歓喜であるぞ。

神と霊は一つであって、幽と現、合わせて三ぞ
この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。
ゆえに肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。
神界から真っ直ぐに感応する想念を正流と申す。
幽界を経てまた幽界より来る想念を外流と申すぞ。
人間の肉体は想念の最外部、最低部をなすものであるから
肉体的動きの以前において霊的動きが必ずあるのであるぞ。
ゆえに人間の肉体は霊の入れものと申してあるぞ。

また物質界は、霊界の移写であり(ころも)であるから、
霊界と現実界、また霊と体とはほとんど同じもの。
同じ形をしているのであるぞ。
ゆえに物質界と切り離された霊界はなく、
霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。
人間は霊界より動かされるが、
また人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。
人間の心の凹凸によって、
一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。
幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。

すべては大宇宙の中にあり、
その大宇宙である大神の中に、
大神が生み(たも)うたのであるぞ。
このことよくわきまえて下されよ。
善のこと悪のこと、善悪のこと、よくわかって来るのであるぞ。
ゆえに、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。
肉体に食うことあれば霊にもあり、
言を食べているのが霊ぞ。
霊は言ぞ。
この点がもっとも大切なことぢゃから、くどう申しておくぞ。

死んでも物質界とつながりなくならん。
生きている時も霊界とは切れんつながりあること、
とくと会得せよ。
そなたたちは神をまつるにも、
祖先まつるにも物質の目当てつくるであろうがな。
それはまだまだ未熟なことぞ。

死後においても、現実界に自分がある。
それはちょうど、生きている時も半分は霊界で生活しているのと同じであるぞ。
自分の(ころも)は自分の外側であるぞ。
自分を霊とすると、(ころも)は体、
(ころも)着た自分を霊とすれば家は体。
家にいる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。
更に先祖は過去の自分であり、
子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。
兄弟姉妹はもっとも近き横の自分であるぞ。
人類は横の自分、
動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。
切り離すことできん。

自分のみの自分はないぞ。
縦には神とのつながり切れんぞ。
限りなき霊とのつながり切れんぞ。
ゆえに神は自分であるぞ。
一切は自分であるぞ。
一切が喜びであるぞ。

霊界における自分は、ことに先祖との交流、交渉多いぞ。
よって自分の肉体は自分のみのものでないぞ。
先祖霊と交渉深いぞ。
神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。
その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。
中間に属するものもあるぞ。
神界に属するものは、正流を通じ、
幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。
正流に属する祖先は正守護神の一柱であり。
外流に加わるものは、副守護神の一柱と現れてくるのであるぞ。
外流の中には、動植物霊も交じってくることあるぞ。
それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。

一切が自分であるためぞ。
常に一切を浄化せなならんぞ。
霊は常に体を求め、体は霊を求めてござるからぞ。
霊体一致が喜びの根本であるぞ。
一つの肉体に無数の霊が感応し得るのだ。
それは霊なるが故にであるぞ。
霊には霊の霊が感応する。
また高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。

二重三重人格と申すのは、二重三重の()ものの転換によるものあり、
群衆心理は一時的の(ひょう)()霊であると申してあろうがな。
霊が元と申してくどう知らせてあろうが。
人間は現界、霊界共に住んでおり、その調和をはからねばならん。
自分は自分一人でなく、
タテにもヨコにも無限につながっているのであるから、
その調和をはからねばならん。
それが人間の使命のもっとも大切なことであるぞ。

調和乱すが悪ぞ。
人間のみならず、すべて(へん)してならん。
霊に(へん)してもならん。
霊も五、体も五と申してあろう。
じゃが主は霊であり体は従ぞ。
神は主であり、人間は従であるぞ。
五と五で同じであると申してあろう。
差別則平等と申してあろう。
取り違い禁物ぞ。

神は愛と現れ、(まこと)と現れるのであるが、
その根はよろこびであるぞ。
神の子は皆よろこびじゃ。
よろこびは弥栄(いやさか)ぞ。
じゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。
間違えてならんぞ。
正流の歓喜は愛の善となって現れ、また(まこと)(まこと)と現れるぞ
外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。
いずれも大神の現れであること忘れるなよ。

悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄(いやさか)あるのであるぞ。
神は弥栄(いやさか)ぞ。
これで良いと申すことないのであるぞ。
大完成から超大大完成へ向かって常に弥栄(いやさか)しているのであるぞよ。
宇宙はすべてにおいても、個々においても
すべてよろこびからよろこびに向かって呼吸しているのぞ。
よころびによって創られてよろこんでいるのであるぞ。
ゆえによろこびなくして生きないぞ。
合一はないぞ。

愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。
(まこと)(まこと)のみではよろこびでないと申してあろうが。
愛と(まこと)と合一し、ゝするところに、陰と陽と合一、
弥栄(いやさか)したところによろこびあるのじゃぞ。
この巻 冬の巻、五月五日の()き日。

記:1952年5月5日

 

冬の巻〜第2帖〜第17帖    

未発表のため欠帖

 

冬の巻〜補帖 →超訳

(やまい)、ひらくことも、運、ひらくことも、
皆 己からじゃと申してあろう。
誰でも、何でも良くなるのが神の道、神の御心じゃ。
親心じゃ。
悪くなるということないのじゃ。
迷いが迷い生むぞ。
もともと(やまい)も不運もない弥栄(いやさか)のみ、喜びのみじゃ。
神がよろびじゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。
この道理よくわきまえよ。
毎日毎日、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。
その日の仕事、与えられるぞ。
仕事いのちと仕えまつれよ。
朝寝するからチグハグとなるのじゃ。
不運となるのじゃ。
仕事なくなるのじ。ゃ
神について行くことが祈りであるぞ。
よろこびであるぞ。
食物、食べ過ぎるから(やまい)になるのじゃ。
不運となるのじゃ。
口から出るもの、入るものに気つけよ。
(いくさ)起こるのじゃ。
人間の(やまい)(いくさ)ばかりでない、
国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな(やまい)となり、
不運となって来るぞ。
食べないで死ぬことないぞ。
食べるから死ぬのじゃぞ。

一椀をとって先ず神に(そな)えよ。
親にささげよ。
子にささげよ。
腹八分の二分はささげよ。
食物こそは神から、親から与えられたものであるぞ。
神にささげずに(むさぼ)るからメグリ積むのじゃ。
メグリが不運となり、(やまい)となるのじゃぞ。
運ひらくのも食物(つつし)めばよい。
(つつし)めばよい。
腹十分食べてはこぼれる。
運は詰まってひらけん。
このわかり切ったこと、なぜにわからんのじゃ。

ささげるからこそ頂けるのじゃ。
頂けたらささげると今の人民申しているが、
それがウラハラと申すもの。
衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。
あずけられているのであるぞ。
人民に与えられているものは食物だけじゃ。
日の恵み、月の恵み、地の恵みだけじゃぞ。
その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのじゃ。
(やまい)治るのじゃ。
人民日干しにはならん。
心配無用。
食物、今の半分で足りると申してあろうが。
遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。
運ひらけ、(やまい)治ってうれしうれしと輝くぞ。
そんなことぐらいで、(やまい)治ったり運ひらけるぐらいなら、
人民はこんなに苦しまんと申すが、
それが理屈と申すもの。
理屈悪と申してあるもの。
低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。

理屈すてよ。
すててやって見なされ。
みなみな気づかん(みち)
気づかん(やまい)になっているぞ。
ツキモノがたらふく食べていることに気づかんのか。
食物節すればツキモノ改心するぞ。
まず百日をめあてに、
百日過ぎたら一年を、
三年続けたら開運間違いなし。
(やまい)もなくなってうれしうれしとなるぞ。
三年目、五年目、七年目ぞ、
めでたいナァ、めでたいナァ。

記:1952年6月9日