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    星座之巻(全文)

 

星座之巻〜第1帖  →超訳

この巻「星座の巻」。
偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、
天に星のあるごとく地には塩があるのであるぞ、
シオ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげたごとく、
ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。
天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、
地の中にもあるのぞ、天にお日様あるごとく地中にも火球があるぞと申してあろう、
同じ名の神二つあるぞ、大切ごとじゃ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第2帖  →超訳

ナルの仕組みとは成十(七十)の仕組みであるぞ、
八が十になる仕組み、岩戸(言答)ひらく仕組み、今までは中々にわからなかったのであるが、
時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう、
富士(二二、普字)と鳴門(七十、成答)の仕組み、結構致しくれよ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第3帖  →超訳

時、時、と申してあるが、時間では無いぞ。
神、幽身(がみ)にも聞かせているのぞ。
地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。
ただ喜びがあるのみぞ。
神界で時間と申すのは、ものの連続と変化、状態の弥栄のことであるぞ。
トキ待てよ。
トキ違えるで無いぞ。
地上人の時間と区別して考えねばこの神示(ふで)は解らんぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第4帖  →超訳

人民もの言えんことになると申してあったこと近くなったぞ。
手も足も出んこと近づいたぞ。
神が致すのでない、人民自身で致すことわかって来るぞ。
人民の学や智では何とも判断できんことになるぞ。
右往左往しても、世界中かけ廻っても何もならんぞ。
わからんでもわかった顔せねばならん時が来たぞ。
ウソの上塗り御苦労ぞ。
人民がいよいよお手上げと言うことに、世界が行き詰まって神のハタラキが現れるのであるぞ。
日本人びっくりじゃ。
日本人はいくらでも生み出されるが日本の国はできまいがな。
身体中、()(がね)に光っているのが国常立大神(くにとこたちおおかみ)の、ある活動の時の御姿ぞ。
白金は豊雲(とよくも)()大神(おおかみ)であるぞ。
今の科学ではわからん。
一万年や三万年の人間の地上的学ではわからんこと。
国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ。
わからんことがいよいよわからんことになったであろうが。
元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ。
神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第5帖  →超訳

悪の仕組み通り、悪平等、悪公平の選挙で選び出すのだから出るものは悪に決まっているでないか。
悪もよいなれど、悪も神の働きであるなれど、悪が表に出ること相成らん。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第6帖  →超訳

人民と申すものは生命(いのち)が短いから、気が短いから、
仕組み少しでも遅れると、この神は駄目じゃと、予言が違ったではないかと申すなれど、
二度とない大建て替であるから少し位の遅し早しはあるぞ。
それも皆人民一人でも多く助けたい神の心からじゃ。
遅れても文句を申すが早くなってもまた文句を申すぞ。
わからんと申すものは恐ろしいものであるぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第7帖  →超訳

この世を創った太神の神示(ふで)ぞ、
一分一厘違わんことばかり、
後になって気がついても、
その時では遅い遅い、
この神は現在もなお、
太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、
この道理わかって下されよ、
世界は進歩し、文明するのでないぞ、
呼吸するのみぞ、
脈搏するのみぞ、
変化するのみぞ、
ぐるぐる廻るのみぞ、
歓喜弥栄(いやさか)とはこのことぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第8帖  →超訳

人民一度死んでくだされよ、
死なねば(よみがえ)られん時となったのぞ、
今までの衣を脱いで下されと申してあろう、
世が変わると申してあろう、
地上界のすべてが変わるのぞ、
人民のみこのままと言うわけには参らぬ、
死んで生きて下されよ、
タテカエ、タテナオシ、
過去と未来と同時に来、て
同じところでひとまず交じり合うのであるから、
人民にはガテンゆかん、
新しき世となる終わりのギリギリの仕上げの様相であるぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第9帖  →超訳

白と黒を交ぜ合わせると灰色となる常識は もう役に立たんぞ。
白黒交ぜると鉛となり鉄となり銅となるぞ、
更に銀となり黄金となるぞ、
これがミロクの世のあり方ぞ、
五と五では動きとれん。
そなたの足許に、
来るべき世界は すでに芽生えているでないか。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第10帖  →超訳

世の元は◯であるぞ、
世の末も◯であるぞ、
◯から◯に弥栄するが、
その動きは左廻りと右廻りであるぞ、
と申してあろう、
その中心に動かぬ動きがあるぞ、
何もかも人民まで変わるのが今度の大建て替え、
食物も、衣類も、住居も みな変わるぞと申している時が来ているのぞ、
いつまでチョンマゲを頭に乗せているのか、
ケンビキ今一度痛くなるぞ、
そのケンビキ今度は東の方じゃ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第11帖  →超訳

自由も共産も共倒れ、
岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、
タマ(玉)の道でなくては立っては行かん、
動かん二二(普字、富士)の仕組み、
ひらけて渦巻く鳴門(七十、成答)じゃ。
新しき人民の住むところ、
霊界と現界の両面をもつところ、
この岩戸ひらいて二度とない九十(光透)でひらく仕組み。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第12帖  →超訳

地上界に山や川もあるから 霊界に山や川があるのでない、
霊界の山川がマコトぞ、
地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、
マが霊界じゃ、
地上人は、半分は霊界で思想し、
霊人は地上界を足場としている、
互いに入れかわって交わっているのぞ、
このことわかれば来るべき世界が、
半霊半物、四次元の高度の、
影ないうれしうれしの世であるから、
人民も浄化 (ぎょう)せねばならん、
大元の道にかえり、歩まねばならん、
今までのような物質ではない物質の世となるのであるぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第13帖  →超訳

父のみ(おろが)(たた)えただけでは足りない、
母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長できないのであるぞ。
一神として拝んでも足りぬ、
二(柱)でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、
マイナスの神を(おろが)まねばならん、
マイナスの神とは母のことじゃ、
天に()します父のみでは足りないぞ、
天にあれば必ず地にもあるぞ、
一即多即(はん)、地即天、天即地から表即裏である、
マコトを(ぎょう)じて下されよ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第14帖  →超訳

目から泥を洗い去ると見えて来るぞ、
右の目ばかりでならん、左の目の泥も落とせよ。
泥のついていない人民一人もいないぞ、
泥落とすには水がよいぞ、
世の元からの「真清(詞)水」で洗い流して下されよ、
世の元の元の元の真清(詞)水結構。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第15帖  →超訳

十二人が一人欠けて十一人となるぞ、
その守護神を加えて二十二柱、二十二が富士じゃ、
真理じゃ、
また三であるぞ、
今までは四本指八本指で物事を計って誤りなかったのであるが、
岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのじゃ、
このことよくわきまえよ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第16帖  →超訳

(にせ)の愛、(にせ)の智と申すのは、
神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、
この人民たちは神の声を聞いても聞こえず、
神の現れを見ても見えないのであるぞ、
目を閉じ耳に(ふた)しているからぞ、
今の人民よ学者よ金持ちよ、
早く考え方を変えねば間に合わん、
心の窓 早くひらけよ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第17帖  →超訳

土のまんじゅうと申してあろう、
土が食べられると申してあろう、
土から人民を生んだと申してあろう、
ウシトラコンジンの肉体は日本の土だと知らせてあろう、
土に生きよと申してあろう、
地は血(智)であるぞ、
素盞(すさ)(のお)(のみこと)様であるぞ、
その土が生長して果ての果てに皮を脱ぐ、
それが地変であるぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第18帖  →超訳

天人が人民に語る時は、
人民の中に来て、
その人民の持つ言葉で語り文字を使うのであるぞ、
自分と自分と語るごとくなるのであるぞ、
天人同士の文字は数字が多いぞ。
夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、
勝手放題に混ぜくり返すなれど、
それもしばらくの狂言。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第19帖  →超訳

人民もの言わなくなると申してあろうが、
ものが今までのようにものを言わなくなり、
マコトの世となるぞ、
天人の言葉はマコトであるから、
ただ一言で万語を伝え得るぞ。
言葉の生命(いのち)は愛であり、(まこと)であるから、
(まこと)愛から発しない言葉はマコトの言葉ではないぞ。
子音と母音と組み組みて父音の気を入れて始めて言葉となるのじゃ、
今の人民のは言葉でないぞ、
日本の古(光)語がマコトの言葉ぞ、言霊(ことだま)ぞ、
数霊と共に弥栄(いやさか)ゆく仕組み。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第20帖  →超訳

人民が正しく言葉すれば霊も同時に言霊(ことだま)するぞ、
神も応え給うのであるぞ。
始めの言葉の元があるぞ、
ムムムムムウウウウウゝゝゝゝゝアと現れるぞ、
神の現れであるぞ、
言葉は神をたたえるものぞ、
マコトを伝えるものぞ、
(とも)に鳴り、(とも)に栄えるものぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第21帖  →超訳

言葉は生まれ出るものじゃ、
まず言葉され、歌となり、文章となり、
また絵画となり、彫刻となり、建築となり、
また音楽となり、舞踊となり、
あらゆる芸術の元となるのであるぞ。
神に通じればこそ、
愛であり、真であり、善であり、美であり、喜びであるぞ、
喜びなきものは芸術でないぞ。
今の芸術は死の芸術、魔の芸術。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第22帖  →超訳

アとオとウとは天人の(ことば)
アとエとイは天使の(ことば)
人民に与えられた元の(ことば)であるぞ、
五柱の元つ太神が十柱の夫婦神と現れ
十柱の子(みこ)と交わって五十神と現れるのじゃ。
ゆえに五十神の中の三十二神は新しく生まれるのじゃ、
さらに二十七神とはたらき また二十五有法とはたらくぞ。

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第23帖  →超訳

二二の二の五つの今あけて、
よろず因縁出づる時来ぬ。
天の理が地に現れる時が岩戸あけぞ、
日本の国が(かん)()台じゃ。

甘露台=神の恩恵を受ける場所・天の恵みを受ける台

記:1961年5月10日

 

星座之巻〜第24帖  →超訳

未発表のため欠帖

 

星座之巻〜第25帖  →超訳

歓喜に裁きのないごとく、神には裁きなし。
裁き説く宗教は いよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、
戒律や裁きは低い段階、
過去の部分的一面に過ぎん、
裁きを説くのは自分で自分を裁いていること、
人民に罪なし。

()(なが)()(のし) (かき)()(とき)()に祝う御代なる。

(いく)()(さか)井津(いつ) (なが)井阿須波比支(いあすはいき)たたえましを。

底つ岩根 千木(ちぎ)(いわ)高く (みず)()(あらか)

四方(よも)()(かど) 五方(いつも)とひらき 宇都(おつ)幣帛(みてくら)を。

御巫(かんなぎ)(こと)()えまつる 生足(いくたる)()(くに)

塩沫(しおなわ)の 留まる限り ()国弥栄(くにいやさか)ゆ。

海原の 辺にも沖にも 神つまります。

天の壁 (くに)退(そぎ)立つ 極み手伸(たの)しき。

八十(やそ)(つな)百綱(ももつな)とかけて ささし給わん。

記:1961年5月10日