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    極め之巻(全文)

 

極め之巻〜第1帖  →超訳

宇都志(うつし)水に (あま)()水添え (たてまつ)らむを。
(ゆう)()より 朝日照るまで フトノリトせむ。
火結神(ほむすび)実秀答(みほと)焼かれて 岩戸(言答、一八十)閉ざしき。

世界を一つにするのであるから王は一人でよいぞ、
動きは二つ三つとなるのじゃ、
キはキの動き、ミはミの動き、動いて和してキミと動くのじゃ。
三が道ぞと知らせてあろう、
自他の境界つくるでないぞ、
(おの)ずから自他の別と和が生まれて お互いに折り重なって栄えるのじゃ、
世界一家への歩み方、やり方、間違えるでないぞ。
九分九厘まで進まねば 後の一厘はわからん、
今が九分九厘であるぞ、
日本は日本、世界は世界、
日本は世界の型国(かたくに)(おの)ずから相違あるぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第2帖  →超訳

青玉の 水江の玉ゆい よよ栄えむ。
天地()む 神の礼白(いやしろ) (おみ)礼白(いやしろ)
天つ神の寿言(よごと)のままに八十(やそ)岩明けぬ。

守護神をよく致せば肉体もよくなるぞ。
神の道は一本道であるから、
多くに見えても終わりは一つになるのじゃ。
今が終わりの一本道に入るところ、
この道に入れば新しき()は目の前、
神も今まではテンデンバラバラであったなれど、
今に一つにならねばならぬことに、
天が命じているのであるぞ。
人民の中と外も同様ぞ。
今の人民はマコトが足らんから、
マコトを申しても耳に入らんなれど、
今度は神が人民にうつって、
また人民となってマコトの花を咲かす仕組み、
同じことを百年も続けてクドク申すと人民は申すなれど、
わからないから申しているのであるぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第3帖  →超訳

わが身を捨てて、三千世界に生きて下されよ。
わが身を捨てると申すことは()を捨てること、
学を捨てることじゃ、
捨てると真理がつかめて大層な御用ができるのであるぞ、
それぞれの言葉はあれどミコトは一つじゃと申してあろうが、
ミコトに生きて下されよ。
言葉の裏には虫がついているぞ、
英語学ぶと英語の虫に、支那語学ぶと支那語の虫に犯されがちじゃ。
わからねばならんし、
中々ながら御苦労して下されよ。
大難を小難にすることはできるのであるが無くすることはできん。
不足申すと不足の虫が湧くぞ、
怒ると怒りの虫ぞ。
一生懸命、自分の信じるように、
神を小さくして自分で割り切れるように、
引きずり降ろしておるなれど、困ったものじゃ、
長くゆったりとした気持ちで神を求めて下されよ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第4帖  →超訳

大空に向かって腹の底から大きく呼吸してゴモクを吐き出し、
大空を腹一杯吸い込んで下されよ。
そなたの神を一応捨てて心の洗濯を致してくれよ、
神示(ふで)が腹に入ったら捨てて下されと申してあろうがな、
神を信じつつ迷信に落ちてござるぞ。
 日本が秘の本の国、(うしとら)(宇詩答裸)のかための国、ゝ◯(日)出づる国、
国常立の大神がウシトラの扉をあけて出づる国ということがわかって来んと、
今度の岩戸ひらきはわからんぞ、
こんなことを申せば、今のエライ人々は、古臭い迷信じゃと鼻にもかけないなれど、
国常立の命がウシトラからお出ましになることが岩戸(言答)ひらきぞ、
今の学ではわからんことばかり。
善と悪とに、勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方。
天の王、地(智、千)の王のこと、
ゝのことがハッキリわからねば足場がないではないか、
足場も、目当てもなくてメクラメッポーに歩んだとて目的地には行き着けん道理。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第5帖  →超訳

つまらぬことに心を残すのは、
つまらぬ霊界との(えにし)が残っていることぞ。
早う岩戸開いて富み栄えて下されよ、
人民 富み栄えることは、神が富み栄えることぞ。
何事も(はら)(きよ)めて下されよ、
清めるとは和すことぞ、
違うもの同士和すのがマコトの和であるぞ。
8までと9、10とは性が違うのぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第6帖  →超訳

和すには5と5でなくてはならんが、
陽が中、陰が外であるぞ、
天が主で地が従ぞ、
男が上、女が下、これが正しき和ぞ、
(さか)さまならん、
これが公平と申すものじゃ、
陰と陰と、陽と陽と和しても陰じゃ、
陽と陰と和して始めて新しき陽が生まれる、
陽が本質的なもの、この和し方が(はら)(きよ)め。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第7帖  →超訳

今まで世に落ちていた神も、
世に出ていた神も皆一つ目じゃ、
一方しか見えんから、
世界のことは、逆の世界のことはわからんから、
今度の岩戸ひらきの御用は中々じゃ、
早う改心して こ(九、光)の神についてござるのが一等であるぞ。
外国の方が早う改心するぞ、
外(幽)国人とは逆の世界の人民のことであるぞ。
神の目からは世界の人民、皆我が子であるぞ。
世界中 皆この神の肉体ぞ、
この神には何一つわからん、
できんと申すことないのじゃ、
どんなことでも致して見せるぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第8帖  →超訳

元は5で固めたのじゃ、
天のあり方、天なる父は5であるぞ。
それを中心として、ものが栄えゆく仕組み、
それを人民は自分の頭で引き下げて4と見たから行き詰まって世界の『(なん)(じゅう)』であるぞ。
手や足はなぜに5本であるか、
誰にもわかるまいがな。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第9帖  →超訳

天の5を地に移すと地の五則となるのじゃ、
天の大神は指を折りてかぞえ給うたのであるぞ、
天の大神の指も五本であるから、
それを五度折りて二十五有法となされ、
五十を(もと)とされたのじゃ、
神々、神心、神理、神気、神境であるぞ、
この交叉弥栄(いやさか)は限りなし、
これを五鎮と申すのであるぞ。
上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すぞ。
東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申す。
裸物、毛物、羽物、鱗物、甲物を五生と申し、
文則、武則、楽則、稼則、用則を五法と申すのじゃが、
それだけでは足りない、
その中に◯があるのじゃ、
大神がましますのじゃ、
人民の頭では中々に理解できんなれど、
理解して下されよ。
これが妙であるぞ、
奇であるぞ、
天の父の教えであり、地にうつした姿であるぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第10帖  →超訳

神示(ふで)に出したら天明に書かせるのであるぞと知らせてあろう、
神示(ふで)はいくらでも神界に出してあるのじゃ、
神が想念したならば、
神界ではそれが神示(ふで)となっているのじゃ、
それを人民にわかるように書かせるのじゃ。
父と母との文字で書かせるのであるぞ、
天明は神示(ふで)うつす役、書かす御役。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第11帖  →超訳

陽あたりのことと、陽かげのことと一時に出て来るのじゃ、
タテコワシとタテナオシが一時に来るのじゃ、
神の申した通りになっておろうがな、
学で説くと学の鬼に(とら)われるぞ、
智で説くと智の、理で解くと理の鬼に(とら)われる、
このままに伝えて下されよ。
天の世界も(つぶ)してはならん、
地の世界も(つぶ)すわけには参らんが、
地上のことは(つぶ)さねば建て直し難しいなれど、見てござれよ、
(リン)(理云)の火水(カミ)でデングリ返して、
見事なことをお目にかけるぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第12帖  →超訳

口先ばかりで、その場限りでうまいこと申してござるが、
それは悪の花、心と行が(ともな)わんからじゃ。
(おのれ)自身の(いくさ)が終わっていないからであるぞ。
そなたのもつ悪い癖を直して下されよ、
それが御神業じゃ。
神々様も自分の癖を直すために御苦労なさっているぞ、
そのために生長する。
昨日(きのう)の自分であってはならんぞ。
六十の手習いで止まってはならん、
死ぬまで、死んでも手習いじゃ。
お互いに(おろが)めよ、
(おろが)むとすべてが自分となる、
(おろが)むところへ集まって来て弥栄(いやさか)じゃ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第13帖  →超訳

これまでに申して聞かせても言うこと聞かぬ人民多いぞ、
聞く耳ないならば思うようにやって見なされ、
グルグル廻って また初めからぞ、
人民は神の中におるのであるから、
いくら頑張っても神の外には出られん。
死んでも神の中におるのぞ、
思うさまやって得心改心、
(われ)(われ)がで苦しむのも薬と申すもの。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第14帖  →超訳

正しくないものが正しい方に従わねばならんと人民申してござるなれど、
正とか不正とか申す平面的(ころも)を早う脱いで下されよ。
マコトを衣として下されよ、
マコトを衣にするには心がマコトとなりなりて、
マコトの肉体とならねばならん、
マコトとは(かず)じゃ、(こと)じゃ、色じゃ、
その配列、順序、法則ぞ。
色タマは言葉、数タマは数字、
色タマ、数タマが乱れると世界が乱れる、
神界の乱れは色からぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第15帖  →超訳

右の頬を打たれたら左の頬を出せよ、
それが無抵抗で平和の元じゃと申しているが、
その心根をよく洗って見つめよ、
それは無抵抗ではないぞ、
打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのぞ。
マコトにおれば相手が手をふり上げても打つことはできん、
よく聞きわけて下されよ。
笑って来る赤子の無抵抗は打たれんであろうが、
これが無抵抗ぞ。
世界一家天下泰平じゃ、
左の頬を出す(おろ)かさを止めて下されよ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第16帖  →超訳

頭下げて低くうなって見なされよ、
必ず高いところから流れてくるぞ。
高くとまっているから流れて来んのじゃ。
神の恵みは水のように淡々として低きに流れて来るぞ、
自分が自分にだまされんように心して下されよ、
善悪を決めて苦しんでござるぞ。
世界の片端(かたすみ) 浜辺から いよいよが起こって来たぞ、
夜明け近づいたぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第17帖  →超訳

今までの、(のが)れ場所はヤマであったが、
今度はヤマに逃げても駄目、
カミの()(むね)の中であるぞ、
山に移って海に入れと申してあろう、
今度のことぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第18帖  →超訳

この神示(ふで)は、神と竜神と天人天使と人民たちに与えてあるのじゃ。
天界でのできごとは必ず地上に移って来るのであるが、
それを受け入れる、その時の地上の状態によって早くもなれば遅くもなり、
時によっては順序も違うのであるぞ、
人民は近目であるから色々と申すなれど、
広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ。
寸分の間違いも無いのであるぞ、
これが間違ったら宇宙はコナミジン、
神はないのであるぞ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第19帖  →超訳

天人天使の行為が人民に映るのであるなれど、
人民の自由、能力の範囲に於ける行為はまた逆に、
天界に反影するのであるぞ、
日本と(から)(支那中国・外国)と土地が違うように、
日本人とカラ人とは違う、
天界の映り方も違うのであるぞ。
同じ日本人でも時と所によって違う。
肌の細かい絹と荒壁に映る映画は同じでも少しずつ違うようなもの、
違って映るのがマコトであるぞ
同じ数でも123と一二三は違うのであるぞ、
わかって下されよ。
新しき世界に進む大切ごとじゃ。

記:1961年8月5日

 

極め之巻〜第20帖  →超訳

今の学者には今の学しかわからん、
それでは今度の岩戸ひらきの役には立たん、
三千世界の岩戸開きであるから、
少しでもフトマニに違ってはならんぞ。
廻りくどいようなれど『(とつ)ぎ』の道から改めなされよ、
出舟の港は夫婦からじゃと申してあろう、
ミトノマグアイでなければ正しき秩序は生まれんぞ、
素盞(すさ)(なる)(のみこと)が、
荒ぶる神、悪神ではなく、
人民の罪を背負って下さる救い主の大神であることがわからねば、
岩戸はひらけんぞ。
新しき世界の宮は十千(土地)(=神智)であるぞ、
住まい(数真意)であるぞ、
永遠に(おわ)す神は数務(住む/澄む)十千(土地)であるぞ、
下には永遠の宇丁(腕)があるぞ。

記:1961年8月5日

フトマニ=神界の正しい順や秩序、法則、鉄則