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    至恩之巻(全文)

 

至恩之巻〜第1帖  →超訳

岩戸(言答)びらきと申してあるが、
天は天の、地は地の、
人民は人民の、動植物は動植物の、
それぞれの岩戸をひらくのであるから、
その立場立場によって違うところがあるぞ、
それを自分の物差しで計って、
岩戸ひらきとはこんなものぞと定めていると、
いよいよわからん時代となって来るぞ、
気つけおくぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第2帖  →超訳

フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、
神示(ふで)では012345678910と示し、
その裏に109876543210があるぞ、
〇九十(マコト)の(まこと)であるぞ、
合わせて二十二、富士(普字、不二)であるぞ。
神示(ふで)の始めに示してあろう。
二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第3帖  →超訳

わかるように説いて聞かすから、
今までの智をひとまず捨てて、
生まれ(あか)()となりて聞いて下されよ。
(あめ)()(うず)()(みこと)(あま)(てらす)(おお)(みかみ)(たてまつ)った巻物には
12345678910と書いてあったのぞ。
その時はそれで一応良かったのであるなれど、
それは限られた時と所でのことで永遠のものではないぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第4帖  →超訳

この時代には一二三四五六七八九十の数と言葉で、
死者も(よみがえ)るほどの力があったのであるなれど段々と曇りが出て来て、
これだけでは役に立たんことになって来たのぞ。
岩戸開きの鍵であったが、
今度の岩戸ひらきには役に立たんようになったのであるぞ。
 始めにゝ◯がなくてはならん、
 ゝ◯は神ぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第5帖  →超訳

人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生まれたのであるぞ。
ゆえに同じ型、同じ性をもっているぞ、
そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現れまし、
成り成りの成りの果てにイザナギ、イザナミの命と成り(たま)いて、
まず国土をつくり固めんとオノコロの四音の島をならし()尋殿(ひろどの)を見立てられたのであるぞ、
これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と(ひろ)がるであろうが、
八十となり、八百、八千と次々に(ひろ)がりて八百(やお)(よろず)となりなるのであるぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第6帖  →超訳

四と八によってなされたのであるから、
(しん)()(ばん)(しょう)のことごとくがその気を受けているのであるぞ。
原子の世界でもそうであろうが、
これが今の行詰まりの原因であるぞ、
八では足らん、十でなくてはならん、
◯でなくてはならんぞ。
岩戸ひらきの原因はこれでわかったであろうがな。

記:1961年9月1日

四と八は四元数と八元数のことか。そこに複素時間が加わって10次元がこの世の(ことわり)かもしれない。
これは空間10次元に時間1次元を加えた膜理論とは違う超弦理論には近いかもしれない。

 

至恩之巻〜第7帖  →超訳

根本の元の元の元の神は◯から一に、二に、三に、四に、五に弥栄(いやさか)したのであるぞ、
別天(ことあま)()(かみ)五柱と申してあろうがな、
五が天であるぞ。
五は数であるぞ、
転じて十となるなれど、
動き栄えるには+と−の神が現れねばなら、
これが中を取り持つ二柱の神ぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第8帖  →超訳

ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、
火の神を生み(たま)いてナミの神は去りましたのであるぞ。
物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、
心得なされよ。
ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。
妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り(たま)い、
妻神を訪れ(たま)い、相談されたのであるなれど、
話が途中からコジレて(つい)に別々に住み(たま)うこととなり、
コトドを見立てられて千引(ちび)きの岩戸を閉め、
両神の交流、歓喜、弥栄(いやさか)は中絶したのであるぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第9帖  →超訳

千引岩を閉ざすに際して、
ナミの神は夫神の()らす国の人民を日に千人喰い殺すと申され、
ナギの神は日に千五百(ちいも)(うぶ)()を建てると申されたのであるぞ。
これが日本の国の、また地上の別名であるぞ、
数をよく極めて下さればわかることぞ、
天は二一六、地は一四四と申してあろうが、
その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、
いろいろなものを生み(たも)うたのであるぞ、
マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、
この道理をよくわきまえなされよ。
ここに大きな神秘が隠されている、
一神で生む限度は七ないし八である、
その上に生まれおかれる神々は皆七ないし八であるが、
本来は十万十全まで拡がるべきものである。
ある時期までは八方と九、十の二方に分かれて それぞれに成長し弥栄(いやさか)して行くのであるぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第10帖  →超訳

国常立(くにとこたち)(のかみ)素戔(すさ)嗚命(なるのみこと)大国主(おおくにぬし)(のみこと)も、
すべて地(智)にゆかりある神々は皆、
九(光)と十(透)の世界におられて時の来るのをお待ちになっていたのであるぞ、
地は智の神が()らすのぞと知らせてあろうが、
天運 正にめぐり来て、
千(智)引きの岩戸(言答)はひらかれて、
これら地(智)にゆかりのある大神たちが現れなされたのであるぞ、
これが岩戸ひらきの真相であり、
(まこと)を知る鍵であるぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第11帖  →超訳

いよいよわからんことが更にわからんことになるぞと申してあるが、
ナギの(みこと)()らす国もナミの(みこと)()らす国も、
双方からお互いに力が押し寄せて交じわりに交じわるから、
いよいよわからんことになるのであるぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第12帖  →超訳

わからんと申すのは一面しか見えぬことであるぞ、
双方を見る目に、早く改心致してくれよ。
この白黒まだらな時は長く続かん、
もっとも苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、
死んでから また(よみがえ)られるように死んで下されよ、
マコトを心に刻みつけておりて下されよ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第13帖  →超訳

死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、
神々様も(しん)()(ばん)(しょう)のことごとくが同様であるぞ、
しばらくの生みの苦しみ。
八の世界から十の世界になるのであるから、
今までの八方的な考え方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、
十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第14帖  →超訳

八方的地上から十方的地上となるのであるから、
すべての位置が転ずるのであるから、
物質も念もすべてが変わるのであるぞ。
これが元の元の元の大神の御神業(おんかみわざ)ぞ、
今までは時が来なかったから知らすことできんことでありたなれど、
いよいよが来たので皆に知らせるのであるぞ。
百年も前からそら洗濯じゃ、掃除じゃと申してあったが、
今日のためであるぞ、
岩戸開きのためであるぞ。
今までの岩戸ひらきと同様でない、
末代に一度の大岩戸(言答)ひらきじゃ。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第15帖  →超訳

神の申すことは一分一厘違わんのであるぞ、
今度言うことを聞かねば大変な気の毒となるぞ、
地(智)の下になってしまうのであるぞ、
12345678の世界が12345678910の世となりて、
012345678910の世となるのじゃ、
012345678910が『マコト』と申してあろうがな。
裏表で二十二じゃ、
二二の五じゃ、
二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ、
わかりたか。

記:1961年9月1日

 

至恩之巻〜第16帖  →超訳

太陽は十の星を(したが)えるぞ、
原子も同様であるぞ。
物質が変わるのであるぞ、
人民の学問や智ではわからんことであるから早う改心第一ぞ、
二二(ふじ)と申すのは天照大神殿の()(くさ)の神宝にゝを入れることであるぞ、
これが一厘の仕組み。
二二となるであろう、
これが富士の仕組み、
七から八から鳴り鳴りて十となる仕組み、
なりなりあまるナルトの仕組み。
富士(不二)と鳴門(成答)の仕組みいよいよぞ、
これがわかりたならば、どんな臣民(しんみん)でも腰を抜かすぞ。
一方的に一神でものを生むことできるのであるが、
それでは終わりはまっとうできん。
九分九厘で『リンドマリ』ぞ、
神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、
卍(ブッダ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、
助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。
用意はよいか。
このこと大切ごと、気つけておくぞ。
なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、
富士(普字)晴れるぞ、
大真理世に出るぞ、
新しき太陽が生まれるのであるぞ。

記:1961年9月1日