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    五葉之巻(全文)

 

五葉之巻〜第1帖  →超訳

あの子を生んで、この子を産んで去ったのであるぞ。
その中に一人だけ良くない子ができた、
その子には海の藻草や山の菜、野菜を食べさせてくれよ、
段々良い子になるぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第2帖  →超訳

霊界に方位はない、
人民は東西南北と申しているなれど、
今に東の東が現れるぞ。
霊界では光の射す方が北じゃ、
その他の東西南北は皆南じゃ、
北が元じゃ、
北(基田)良くなるぞと申してあろうがな。
(なる)()の渦巻きを渡る時は(かじ)を放して、
手放しで流れに任せると渡れるのであるぞ、
(かじ)を取ると同じ処をグルグルじゃ。
(かじ)を放せる人民少ないのう。
何でもかんでも(かじ)を取って自分の思う通りに舟を進めようとするから大変が起こるのじゃ、
渦に(まか)せる時は任せなければならんぞ、
ナルトの仕組みの一面であるぞ、
大切ごとぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第3帖  →超訳

友つくれと申してあろうが、
友と申しても人間ばかりでないぞ、
山も友ぞ、川も友ぞ、動植物も友ぞ。
一人の友を得たら一つの世界を得たことぞ、
何もかも皆友じゃ、
友は(おのれ)じゃ、
皆己となれば己なくなるぞ、
己なくなれば永遠に生きられる、無限の己となるぞ。
御神前で拝むのも良いなれど、空を拝めよ、山も川も拝めよ、
野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が神となり、また己となるのじゃ。
足らぬことないクワシホコチタルのウラヤスの自分となるのであるぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第4帖  →超訳

お尻を出したらお尻をキレイに()ふいてやれよ、
怒ってはならん、
お尻を出されるには、出されるだけの何かの原因が(おのれ)の中にあるのであるぞ。
利子は後からでよいと申すが先に払うこともあるぞ、
先にお尻を()いてやらねばならんこともあるぞ。
世が迫って岩戸が()いたのであるから、
先にお尻を()くことも出てくるぞ、
思わぬお尻持ち込まれることもあるなれど、
怒ってはならん、
気持ちよく()いてやれよ、
やがては神がそなたのお尻を()いて下さるぞよ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第5帖  →超訳

物与えること中々じゃ、心してよきに与えねばならんぞ。
与えることは頂くことと知らせてあろうが、
与えさせて頂く感謝の心がなくてはならん、
強く押すと強く、弱く押すと弱くハネ返ってくるぞ。
自分のものというもの何一つないぞ、
このことわかれば新しき道がわかるぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第6帖  →超訳

仕事はいくらでもあるでないか、
七つの仕事があるぞ、
七人の代えミタマあると知らせてあろうがな、
高く昇らねば遠くは見えん、
目の先ばかり見ているから行き詰まるのじゃ、
道は落とし穴もあるぞ、
心得て、仕事に仕えまつれよ。
岩戸はひらかれているのに何しているのぞ、
光が射しているのになぜ背を向けているのぞ、
十の仕事して八しか報酬ないことあるぞ、
この場合は二は神に預けてあると思えよ、
神の帖面あやまりなし、利子付いて返ってくるぞ、
まことのおかげは遅いと申してあろうがな。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第7帖  →超訳

昨日は昨日、今日は今日の風、昨日に(とら)われるなよ。
人民の道は定まっているなれど、
目の前だけしか見えんから踏み迷うのであるぞ。
薬飲んで毒死せんように致してくれよ。
薬は毒、毒は薬じゃ、
大峠にも登りと下りとあるぞ、
馬鹿正直ならん、
頭の体操、ヘソの体操ぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第8帖  →超訳

出し切ってしまうと味がなくなるぞ、
自分の力が隠せぬようでは大仕事はできんぞ。
取り越し苦労、過ぎ越し苦労はやめて下され、
地球という大船に乗って一蓮托生じゃ、
現在の仕事が御神業と心得よ、
不満を持ってはならん、
そなたが招いた仕事でないか。
この道理わからねば迷信の迷路に入るぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第9帖  →超訳

平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、
天地をよく見よ、
人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、
一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、
一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。
これが公平であり平等と申すもの。
人民は選挙と申す()(やく)に酔っているぞ、
選挙すればするほど、本質から遠ざかるぞ。
他に方法がないと定めてかかるから、
悪魔に()入られているからわからんことになるぞ。
世は立体であるのに平面選挙していては(あい)成らんぞ。
平面の数で定めてはならん、
立体の数に入れよ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第10帖  →超訳

悪自由、悪平等の神が最後の追い込みにかかっているなれど、
もう悪の世は済んで岩戸が開いているのだから、
何とやらのように前からはずれてアフンじゃ、
七重の花が八重に、八重が九重、十重に開くのであるぞ、
七重はキリストじゃ、八重は仏教じゃ、今の神道じゃ、
今までの教えは潰れると申してあろうがな。
とやかく申さず(つか)めるところから神を(つか)んでついてござれよ、
水は流れるところへ流れているであろうがな、
あの姿。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第11帖  →超訳

善では立って行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。
岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ、
今までは平面の土俵の上でのできごとであったが、
今度は立体土俵の上じゃ、
心をさっぱり洗濯して改心致せよと申してあろう、
悪い人のみ改心するのでない、
善い人も改心せねば立体には入れん、
【この度の岩戸は立体に入る門ぞ】。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第12帖  →超訳

八のつく日に気つけてあろうが、
八とはひらくことぞ。
今が八から九に入る時ぞ、
天も地も大岩戸ひらき、
人民の岩戸ひらきにもっとも都合のよい時ぞ。
天地の波にのればよいのじゃ。
楽し楽しで大峠越せるぞ、
神は無理申さん、やればやれる時ぞ、
ヘタをすると世界は泥の海、
神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、
新しき太陽は昇っているでないか。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第13帖  →超訳

悪を食って暮らさねばならん時近づいたぞ、
悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、
悪は善の仮面をかぶっていること多いぞ、
だが悪も大神の中に生まれたものであることを知らねばならん。
ダマシたいものには ひとまずダマサレてやれよ。
ダマサレまいとするからダマサレるのであるぞ。
生命(いのち)の樹の実は美しくおいしいぞ、
食べてはならんが食べねばならんぞ、
肉体慾が先に出るから生命(いのち)を失う、
心でとって実を喜ばせて食べるとよいのであるぞ、
食べないで食べる秘密。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第14帖  →超訳

一升マスには一升入ると思っているなれど、
一升入れるとこぼれるのであるぞ、
腹一杯食べてはならん、死に行く道ぞ、
二分をまず神に(ささ)げよ。
流行(はやり)(やまい)は邪霊集団の()(わざ)
今にわからん(やまい)、世界中の(やまい)はげしくなるぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第15帖  →超訳

今に大き呼吸(いき)もできんことになると知らせてあろうが、
その時来たぞ、
岩戸がひらけると言うことは
【半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となることじゃ】、
今の肉体、今の理念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ、
今の肉体のままでは、人民は生きて行けんぞ、
一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れ変えて、
ミロクの世の人民として よみがえらす仕組み、
心得なされよ、
神様でさえ、このことわからん御方あるぞ、
大地も転位、天も転位するぞ。

記:1961年9月1日

 

五葉之巻〜第16帖  →超訳

マコトでもって洗濯すれば霊化される、
半霊半物質の世界に移行するのであるから、
半霊半物の肉体とならねばならん、
今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、
今の世は灰にするより他に方法のないところがたくさんあるぞ、
灰になる肉体であってはならん、
原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、
今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命(いのち)が生まれつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ、
少しくらいは人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、
大弥栄(おおいやさか)の仕組み。

記:1961年9月1日